表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝③「侍女の十九年」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

322/335

水路の底

 怖かった。


 飛び込む前の一瞬だけ、怖かった。


 そのことは誰にも言っていない。言う必要がないからだ。お嬢様はそんなことを聞かないし、マルガレーテさんも聞かなかった。みんな知らないままでいい。


 でも、あの一瞬だけは怖かった。水路の端に立って、三歳の子がぼんやりと水の中にいるのが見えた瞬間、足が一瞬止まった。


 一瞬だけ。


 それから身体の方が先に動いた。


 ◇


 わたしはその日、十二歳だった。


 アルヴェイン公爵家に仕えて半年が経った頃だった。ヴェルナー家政婦長のもとで掃除と洗濯を覚えて、マルガレーテさんに引き上げられ、お嬢様付きの侍女補佐になったばかりだった。


 アルヴェイン公爵家はわたしにとって、初めて安定した場所だった。


 それ以前のことはあまり書かない。父が死んで、帰る家がなくなった。麦畑の間の道を二時間歩いて、この門を叩いた。そういう朝がある人間がいる。わたしがそうだった。


 公爵家に来た時、家政婦長が「役に立たなければ帰ってもらいます」と言った。仕事をすればいい、という言葉がとても分かりやすかった。わたしは分かりやすい言葉が好きだ。


 ◇


 その日、朝から、お嬢様の様子がいつもと違った。


 ディートリヒが王都へ出発した日の午後だった。屋敷の中の空気が少し違った。普段なら午前中はマルガレーテさんと部屋で過ごすお嬢様が、「庭に出たい」と言った。


 マルガレーテさんが少し迷ってから「少しだけ」と許可した。東側の庭の、花壇のあたりまで。それだけの約束だった。


 わたしは別の部屋の仕事をしていた。お嬢様は一人で東の庭に出た。


 ◇


 しばらくして、マルガレーテさんがお嬢様の部屋から出てきた。


 「ナターシャ、お嬢様は東の庭ね?」


 「はい、花壇のあたりに」


 「少し見てきてちょうだい。もう十五分経つから」


 わたしは東の庭に向かった。


 花壇のあたりにお嬢様はいなかった。


 次に何をするか、考えながら歩いた。少し奥の方に行ったのかもしれない。東区画の端の方に灌漑水路があると聞いていた。修繕工事が途中で止まっていると。


 足を速めた。


 足を速めながら、なぜ速めているのかを少し考えた。お嬢様が水路の近くにいるかもしれない、という予感があった。根拠はなかった。ただそういう気がした。


 ◇


 水路が見えてきた。


 石で組んだ水路だ。幅は大人が両腕を広げたくらい。工事が途中で止まっているところの縁に、柵がなかった。


 音がした。


 水の音と、小さな声だ。


 「おかあさま」


 「たすけて」


 走った。


 ◇


 水路の端から覗き込んだ。


 お嬢様がいた。水の中にいた。頭が水面から出たり入ったりしていた。手足が動いていた。必死に動いていたが、身体が言うことを聞いていない様子だった。


 水深は、大人の腰ほどだったと思う。だが三歳の身体には頭の上だ。


 一瞬、足が止まった。水が怖いのではなかった。水は平気だ。農村育ちだから川には慣れていた。


 怖かったのは、間に合わないかもしれない、という瞬間の感覚だった。


 その一瞬で身体が動いた。


 飛び込んだ。


 ◇


 水は冷たかった。春だが、雪解け水が混じっているのか、思ったより冷たかった。


胸まで来た。わたしが十二歳で、水深がそれくらいだった。


 お嬢様は沈みかけていた。手を伸ばして掴んだ。細かった。腕が細かった。


 引き上げた。岸に上げた。


 お嬢様が咳をした。水を吐いた。泣いていた。小さな声で泣いていた。


 わたしも濡れていた。震えていた。


 ◇


 「しっかりしてください」と言った。


 お嬢様が咳き込みながら、わたしにしがみついてきた。濡れていた。震えていた。三歳の身体が全部震えていた。


 「死んじゃうかと……」という声が自分の口から出た。


 泣いていた。わたしが泣いていた。気づいたら泣いていた。


 お嬢様も泣いていた。二人で水路の縁に座って、濡れたまま泣いていた。


 ◇


 後でマルガレーテさんが駆けつけた。


 大騒ぎになった。公爵にも報告された。お嬢様は部屋に連れて行かれて、医師が呼ばれた。


 わたしも着替えさせてもらって、温かいお茶を出してもらった。


 「なぜそんなところに行ったのか聞かなかったの?」とマルガレーテさんが聞いた。


 「聞けませんでした」とわたしは答えた。


 「なぜ」


 「お嬢様は何かを背負っていると思って。水路の底で、そう気づきました」


 マルガレーテさんは少しの間わたしを見た。それから「そう」とだけ言った。


 ◇


 夜、お嬢様の部屋の前を通った。


 声が聞こえた。熱を出していた。うなされている声だった。「まだ、しねない」と言っていた。


 三歳の子供がそんな言葉を言う。


 わたしはしばらく、廊下に立っていた。


 聞かない、と思った。


 何があったのか聞かない。何を背負っているのか聞かない。なぜそこにいたのか聞かない。


 あの水路の底で気づいたことがある。お嬢様は三歳だが、三歳じゃない何かを抱えている。それをわたしが理解する必要はない。理解しようとしなくていい。


 わたしの仕事は、傍にいることだ。


 それだけでいい。


 ◇


 翌朝、お嬢様の熱が下がった。


 部屋を覗くと、目を覚ましていた。


 「ナターシャ」と呼ばれた。


 「はい」


 「きのうは、ありがとう」


 「いつも通りです」とわたしは言った。


 いつも通り。


 まだ何が「いつも通り」なのかもよく分かっていなかったが、それが正しい答えに思えた。


 お嬢様が少し笑った。


 それが、最初だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ