水路の底
怖かった。
飛び込む前の一瞬だけ、怖かった。
そのことは誰にも言っていない。言う必要がないからだ。お嬢様はそんなことを聞かないし、マルガレーテさんも聞かなかった。みんな知らないままでいい。
でも、あの一瞬だけは怖かった。水路の端に立って、三歳の子がぼんやりと水の中にいるのが見えた瞬間、足が一瞬止まった。
一瞬だけ。
それから身体の方が先に動いた。
◇
わたしはその日、十二歳だった。
アルヴェイン公爵家に仕えて半年が経った頃だった。ヴェルナー家政婦長のもとで掃除と洗濯を覚えて、マルガレーテさんに引き上げられ、お嬢様付きの侍女補佐になったばかりだった。
アルヴェイン公爵家はわたしにとって、初めて安定した場所だった。
それ以前のことはあまり書かない。父が死んで、帰る家がなくなった。麦畑の間の道を二時間歩いて、この門を叩いた。そういう朝がある人間がいる。わたしがそうだった。
公爵家に来た時、家政婦長が「役に立たなければ帰ってもらいます」と言った。仕事をすればいい、という言葉がとても分かりやすかった。わたしは分かりやすい言葉が好きだ。
◇
その日、朝から、お嬢様の様子がいつもと違った。
ディートリヒが王都へ出発した日の午後だった。屋敷の中の空気が少し違った。普段なら午前中はマルガレーテさんと部屋で過ごすお嬢様が、「庭に出たい」と言った。
マルガレーテさんが少し迷ってから「少しだけ」と許可した。東側の庭の、花壇のあたりまで。それだけの約束だった。
わたしは別の部屋の仕事をしていた。お嬢様は一人で東の庭に出た。
◇
しばらくして、マルガレーテさんがお嬢様の部屋から出てきた。
「ナターシャ、お嬢様は東の庭ね?」
「はい、花壇のあたりに」
「少し見てきてちょうだい。もう十五分経つから」
わたしは東の庭に向かった。
花壇のあたりにお嬢様はいなかった。
次に何をするか、考えながら歩いた。少し奥の方に行ったのかもしれない。東区画の端の方に灌漑水路があると聞いていた。修繕工事が途中で止まっていると。
足を速めた。
足を速めながら、なぜ速めているのかを少し考えた。お嬢様が水路の近くにいるかもしれない、という予感があった。根拠はなかった。ただそういう気がした。
◇
水路が見えてきた。
石で組んだ水路だ。幅は大人が両腕を広げたくらい。工事が途中で止まっているところの縁に、柵がなかった。
音がした。
水の音と、小さな声だ。
「おかあさま」
「たすけて」
走った。
◇
水路の端から覗き込んだ。
お嬢様がいた。水の中にいた。頭が水面から出たり入ったりしていた。手足が動いていた。必死に動いていたが、身体が言うことを聞いていない様子だった。
水深は、大人の腰ほどだったと思う。だが三歳の身体には頭の上だ。
一瞬、足が止まった。水が怖いのではなかった。水は平気だ。農村育ちだから川には慣れていた。
怖かったのは、間に合わないかもしれない、という瞬間の感覚だった。
その一瞬で身体が動いた。
飛び込んだ。
◇
水は冷たかった。春だが、雪解け水が混じっているのか、思ったより冷たかった。
胸まで来た。わたしが十二歳で、水深がそれくらいだった。
お嬢様は沈みかけていた。手を伸ばして掴んだ。細かった。腕が細かった。
引き上げた。岸に上げた。
お嬢様が咳をした。水を吐いた。泣いていた。小さな声で泣いていた。
わたしも濡れていた。震えていた。
◇
「しっかりしてください」と言った。
お嬢様が咳き込みながら、わたしにしがみついてきた。濡れていた。震えていた。三歳の身体が全部震えていた。
「死んじゃうかと……」という声が自分の口から出た。
泣いていた。わたしが泣いていた。気づいたら泣いていた。
お嬢様も泣いていた。二人で水路の縁に座って、濡れたまま泣いていた。
◇
後でマルガレーテさんが駆けつけた。
大騒ぎになった。公爵にも報告された。お嬢様は部屋に連れて行かれて、医師が呼ばれた。
わたしも着替えさせてもらって、温かいお茶を出してもらった。
「なぜそんなところに行ったのか聞かなかったの?」とマルガレーテさんが聞いた。
「聞けませんでした」とわたしは答えた。
「なぜ」
「お嬢様は何かを背負っていると思って。水路の底で、そう気づきました」
マルガレーテさんは少しの間わたしを見た。それから「そう」とだけ言った。
◇
夜、お嬢様の部屋の前を通った。
声が聞こえた。熱を出していた。うなされている声だった。「まだ、しねない」と言っていた。
三歳の子供がそんな言葉を言う。
わたしはしばらく、廊下に立っていた。
聞かない、と思った。
何があったのか聞かない。何を背負っているのか聞かない。なぜそこにいたのか聞かない。
あの水路の底で気づいたことがある。お嬢様は三歳だが、三歳じゃない何かを抱えている。それをわたしが理解する必要はない。理解しようとしなくていい。
わたしの仕事は、傍にいることだ。
それだけでいい。
◇
翌朝、お嬢様の熱が下がった。
部屋を覗くと、目を覚ましていた。
「ナターシャ」と呼ばれた。
「はい」
「きのうは、ありがとう」
「いつも通りです」とわたしは言った。
いつも通り。
まだ何が「いつも通り」なのかもよく分かっていなかったが、それが正しい答えに思えた。
お嬢様が少し笑った。
それが、最初だった。




