王都の記憶
王都別邸の朝は、公爵領の朝とは匂いが違った。
石と煤の匂い。遠くの市場から漂う食べ物の匂い。馬車の車輪が石畳を擦る音。無数の人間の気配。
公爵領の澄んだ空気に慣れた身体には、全てが濃すぎた。
セレスティアは別邸の自室で目を覚ました。広い部屋だが、公爵領の自室より装飾が華やかだ。王都の貴族は見栄を競う。壁紙から家具に至るまで、全てが「高貴さ」を主張している。
窓を開けると、王都の街並みが広がっていた。
朝靄の中に尖塔が林立している。教会の鐘が鳴っている。遠くに王宮の金色のドームが霞んで見える。
あのドームの下で、前世のセレスティアは処刑を宣告された。
胸が締めつけられた。だが呼吸法で押し返す。もう慣れた。恐怖と共に生きることに。
「お嬢様、お着替えのお時間です」
マルガレーテが入ってきた。王都用の衣装。淡い青のドレスに白いリボン。公爵家の令嬢として社交の場に出る装い。
「今日は何があるの?」
「閣下が王宮にご挨拶に参られます。お嬢様と奥方様は別邸でお待ちを」
初日は公爵の公式訪問だ。セレスティアとリリアーナが王宮に入るのはまだ先。社交シーズンの茶会が始まってからだ。
だがセレスティアには、今日やるべきことがあった。
「マルガレーテ、おさんぽにいきたい」
「お散歩ですか? 王都は公爵領とは違いますから、護衛なしでは――」
「ヴォルフさまがいるよ」
マルガレーテは少し考えてから頷いた。「では、ヴォルフ殿にお願いしましょう」
◇
王都の街を歩く。
ヴォルフが右後方を歩いている。ナターシャが左隣。マルガレーテは別邸で奥方様の世話だ。
五歳の少女が護衛と侍女を連れて街を歩く姿は、貴族街では珍しくない。だが通行人の目がセレスティアに吸い寄せられるのは、銀髪と碧い目の異彩のせいだ。アルヴェイン家の血は目立つ。
セレスティアは歩きながら、王都の地図を頭の中で描いていた。
前世の記憶と照らし合わせる。通りの名前。建物の配置。十八年前の記憶だが、都市の骨格は変わっていない。
だが細部は違う。前世では知らなかった路地がある。記憶にない店がある。当然だ。前世のセレスティアは王宮と学園と公爵邸の間を行き来するだけで、街を自由に歩くことなどなかった。
今世では違う。五歳の今のうちに、王都を知っておく。
石畳の通りを南に歩いた。商店街を抜け、広い通りに出る。
そして――見えた。
広場だ。
大きな広場。中央に石造りの台がある。今は花壇になっているが、セレスティアにはその「本来の用途」が分かった。
処刑広場。
あの台の上に断頭台が設置された。群衆がこの広場を埋め尽くした。罵声が飛んだ。腐った果物が投げつけられた。
そして刃が落ちた。
足が止まった。
身体が凍りついた。
広場の石畳が、赤く見えた。血の色に。
視界が歪む。耳鳴りが始まる。群衆の声が聞こえる。「死ね」「悪役令嬢」「怪物」。
首が痛い。冷たい金属の感触。刃が。
「お嬢様」
ヴォルフの声が割り込んだ。
同時に、ヴォルフの身体がセレスティアの前に立った。黒い外套が視界を遮った。広場が見えなくなった。
「前だけを見てください」
昨日と同じ言葉。静かで、押しつけがましくない声。
セレスティアは呼吸を整えた。三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
視界が戻る。耳鳴りが引く。群衆の幻聴が消える。
代わりに聞こえるのは、王都の日常の喧騒。馬車の音。商人の呼び声。子供の笑い声。
「……ありがとう、ヴォルフさま」
「戻りますか」
「ううん。だいじょうぶ。つづける」
ヴォルフは何も言わなかった。ただ位置を変え、セレスティアの左側に立った。広場が見えない側に。
この男は本当に何も聞かない。なぜ五歳の子供が広場を見て震えるのか。なぜ処刑台の跡を前にして顔色を失うのか。一切問わない。
ただ守る。それだけだ。
良い護衛だ。いや、良い人間だ。
◇
広場を避けて迂回し、別の通りに入った。
ここは貴族街の外縁。中流の商人や職人が暮らす地区だ。パン屋。仕立て屋。鍛冶屋。書店。
書店の前で足が止まった。
「ナターシャ、あのおみせはいりたい」
「書店ですか? お嬢様、本がお好きなんですね」
ナターシャは笑った。十四歳の少女は、この二年で読み書きを完全に習得し、最近は自分でも本を読むようになっていた。セレスティアが教えた成果だ。
書店に入る。小さな店だが、棚には多様な本が並んでいる。歴史書。魔術書。文学。地図。
セレスティアが探していたのは地図だった。
王都の詳細地図。通りの名前、主要な建物の位置、貴族邸宅の配置が記されたもの。
「これ、ほしい」
指差した地図帳をヴォルフが無言で購入した。護衛の業務に買い物は含まれないはずだが、懐から銅貨を出して店主に渡した。
「ありがとう、ヴォルフさま。あとでおかねかえすね」
「不要です」
短い。だが優しさがある。
◇
別邸に戻り、セレスティアは自室で地図帳を広げた。
王都アウレリアの全体図。北に王宮。東に貴族街。南に商業地区。西に平民街と職人街。中央に大聖堂と処刑広場。
重要な場所に印をつけていく。
王宮。ここに王太子アレクシスがいる。
宰相府。王宮の隣。ここにガルニエ宰相がいる。
ガルニエ邸。貴族街の東端。宰相の私邸。娘イザベラもここにいるはずだ。
王立学園。貴族街の北。二年後にセレスティアが入学する場所。
大聖堂。中央地区。聖職者たちの拠点。前世では聖女カタリナがここで「神の奇跡」を演じた。
そして処刑広場。大聖堂の隣。
赤い印をつけた。ここには近づかない。近づく必要がない。だが場所は知っておく。
(いつかここに——水が流れればいい)
すぐに次の印に目を戻した。今はそれだけでいい。
「お嬢様、何をしていらっしゃるのですか?」
ナターシャが覗き込んだ。
「おうとのべんきょう」
「お勉強熱心ですね」
「ナターシャも覚えて。どこになにがあるか。にげるときにやくにたつから」
ナターシャの表情が少し変わった。「逃げる時」という言葉の重さを感じ取ったのだろう。
「はい。覚えます」
真剣な目。この二年で、ナターシャは「お嬢様の言葉には常に意味がある」と学んでいた。
◇
夕方、公爵が王宮から戻った。
書斎で家族会議。セレスティア、フェリクス、リリアーナ。ヘルマンが同席。ヴォルフは扉の外で護衛。
「王宮の様子を報告する」
公爵の声は硬かった。
「宰相ガルニエは変わらず権勢を振るっている。王との私的な謁見を週三回行い、国政のほぼ全てを掌握している。反宰相派の貴族は萎縮している」
「王妃様は?」
リリアーナが聞いた。
「王妃は健在だが、政治的な影響力は制限されている。宰相が王妃の動きを牽制している」
リリアーナの目が沈んだ。親友が政治に縛られている。
「宰相はアルヴェイン家について何か言っていたか」
フェリクスの問い。
「直接的な言及はなかった。だが宰相府の文官がこちらを観察しているのは感じた。ディートリヒの件は気づいているだろう。だが公然とは動かない。まだ」
「おとうさま、さいしょうさまはたぶん、しゃこうかいでしかけてくる」
セレスティアの声に、全員の視線が集まった。
五歳の少女が政治的予測を述べる光景に、この一年で全員が慣れた。だが慣れても奇妙さは消えない。
「社交界で、というのは?」
「なおってきたおかあさまをみて、どくがとまったことにきづく。ディートリヒさまのしっぱいをしる。つぎはべつのほうほうでくる。でもぶりょくじゃない。まずはうわさ。こうしゃくけのわるいうわさをながして、こりつさせる」
公爵の目が鋭くなった。
「噂、か。宰相の常套手段だ」
「おかあさまのうわさ。わたしのうわさ。おとうさまのうわさ。なんでもいい。しゃこうかいでこうしゃくけのひょうばんをおとせば、みかたがへる」
フェリクスが顎に手を当てた。「対策は?」
「みかたをふやす。うわさをながされるまえに、みかたをつくる。おうひさま。ほかのきぞく。しんらいできるひとをみつける」
リリアーナが言った。「エレオノーラに会いたい。会えるかしら」
公爵は少し考えてから頷いた。「王妃への拝謁は申請する。セレスティア、お前も同行しろ」
「はい」
セレスティアの胸が高鳴った。
王妃エレオノーラ。母の親友。前世では接触できなかった人物。今世では最初の同盟者になりうる。
だがその前に、もう一つ超えなければならない壁がある。
社交界の茶会。貴族の子女たちとの顔合わせ。
そこに宰相の娘イザベラがいる。
そして――王太子アレクシスがいる。
セレスティアは胸のブローチに触れた。銀の鷲が、指先で冷たく光っている。
「おとうさま」
「何だ」
「わたし、まけない」
短い言葉。だが公爵は頷いた。
「知っている」
父と娘の目が合った。碧い目と碧い目。
鷲は飛ぶ。嵐の中でも。
窓の外で、王都の夕日が沈んでいく。金色のドームが茜色に染まっている。
明日から、新しい戦いが始まる。




