王都への馬車
セレスティアは五歳になった。
この二年間で、世界は少しずつ変わっていた。
母リリアーナは完全に回復した。毒の後遺症を心配したローレンツ医師の懸念をよそに、フェリクスが調合した薬草療法が効を奏し、母の身体は本来の健康を取り戻した。頬には常に薔薇色が宿り、声は凛と響き、かつて「黄金の百合」と謳われた美貌が完全に蘇っていた。
フェリクスは十五歳になり、王都の学術院に論文を二本送っていた。「辺境の少年学者」として名が知られ始めている。だが彼の本当の研究対象――聖魔力――は、秘密のままだ。
エドヴァルトは二十歳。騎士修行から一時帰還し、逞しくなった体躯で母を抱き上げて笑わせた。「母上、こんなに軽くては困ります。もっと食べてください」。リリアーナは息子の大きくなった手を見て泣いた。
ヘルマンは変わらない。鉄面皮に鋼の忠誠。だが王都との情報網を整備し、ラインハルト元近衛騎士を通じて宰相府の動きを監視し続けている。
ディートリヒは東棟の一室に幽閉されたままだ。時折ヘルマンが尋問に訪れ、宰相派の情報を引き出している。ディートリヒは諦観の中で協力的だった。逃げ場がないことを理解している賢い男は、生き延びるために情報を差し出す。
そしてセレスティア自身。
五歳の身体は四歳より少し大きくなったが、依然として小さい。だが中身は着実に成長していた。
読み書きは完璧に習得した。フェリクスの指導で数学と歴史の基礎も学んだ。「天才児」という評判が領内に広まりつつあるが、セレスティアは慎重に能力を隠している。目立ちすぎれば宰相の耳に届く。
聖魔力の制御は進んでいた。呼吸法は完全に身についた。感情の波を鎮め、魔力の暴走を防ぐ技術。だが積極的な魔力の行使――攻撃や防御、治癒――はまだ練習段階だ。フェリクスは「焦るな。基礎が全てだ」と繰り返す。
そんな中、公爵から告げられた。
「王都に行く。社交シーズンだ。セレスティアも連れていく」
◇
王都行きの馬車は、大型の四頭立てだった。
公爵家の紋章――青地に銀の鷲――が車体に刻まれている。護衛は騎馬兵六名。そして新たに加わった人物が一人。
ヴォルフ・レーヴェンシュタイン。二十歳。セレスティアの専属護衛に任じられた青年剣士。
長身。黒髪。灰色の目。表情は乏しく、口数は極端に少ない。だが剣の腕は確かだった。ヘルマンが自ら選んだ人材だ。
「この者はヴォルフです。お嬢様の護衛を務めます」
ヘルマンの紹介に、ヴォルフは一言だけ言った。
「よろしくお願いします」
それきり黙った。
セレスティアはヴォルフを観察した。目が鋭い。だが冷たさではなく、警戒の鋭さだ。常に周囲を見ている。敵を探している。獣のような鋭敏さ。
前世にはいなかった人物だ。前世のセレスティアに専属護衛がつくことはなかった。公爵が娘に護衛を割く余裕がなかったからだ。
今世では違う。父が娘を守ると決めた。その決意の具現がヴォルフだ。
「ヴォルフさま、よろしくおねがいします」
「……はい」
言葉は少ない。だが声に誠実さがあった。
◇
馬車は公爵領を出発した。
車内にはセレスティア、リリアーナ、マルガレーテ、ナターシャ。公爵とフェリクスは別の馬車だ。ヴォルフは馬上で車列の傍を行く。
窓の外を風景が流れていく。公爵領の広大な農地。なだらかな丘陵。点在する村落。やがて街道は森に入り、木漏れ日が馬車の中に踊った。
セレスティアは窓に額をつけて外を見ていた。
この道を行けば、三日で王都に着く。
王都。
前世の記憶が蠢いた。
王都は処刑が行われた場所だ。断頭台が立っていた広場。群衆の罵声。冷たい石の台。首に触れる刃の感触。
指先が冷たくなった。呼吸が浅くなる。
来た。フラッシュバック。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
呼吸法で押し返す。二年間の訓練が体に染みついている。恐怖の波が来ても、呼吸で鎮められる。
だが完全には消えない。胸の奥に冷たい塊が残る。氷の欠片のような恐怖。王都に近づくほど大きくなる。
「セレスティア、大丈夫?」
リリアーナが娘の顔色の変化に気づいた。母の観察力は鋭い。
「うん。だいじょうぶ。おうとってどんなところ?」
話題を逸らした。母に心配をかけたくない。
「王都はとても大きな街よ。お城があって、大きな市場があって、劇場や図書館もあるの。お母様が子供の頃は王都に住んでいたのよ」
リリアーナの目が懐かしそうに細まった。
「王宮の庭には白い薔薇がたくさん咲いていてね。エレオノーラ――王妃様と一緒に、よく花冠を作って遊んだの」
「おうひさまとおともだちだったの?」
「ええ。幼馴染よ。今はなかなかお会いできないけれど……」
母の声に影が差した。政治的な理由で引き離された親友。宰相の介入で、公爵夫人と王妃の間には見えない壁が築かれた。
セレスティアは知っている。王妃エレオノーラは味方になりうる人物だ。前世では接触する機会がなかったが、今世では母の繋がりを通じて王妃に近づける可能性がある。
「おかあさま、おうひさまにあえるといいね」
「そうね。会えたら嬉しいわ」
リリアーナは微笑んだ。その笑顔に、かつての弱々しさはない。
◇
二日目の夕方。街道の宿場町で一泊した。
夜、セレスティアは宿の窓から東の空を見ていた。王都の方角に、薄い光の帯が見える。都市の灯りだ。明日の夕方には着く。
ナターシャが傍にいた。十四歳になったナターシャは、背が伸び、顔つきもしっかりしてきた。だが根本的な真面目さと忠誠心は変わらない。
「ナターシャ、おうとにいったことある?」
「いいえ。初めてです。少し緊張しています」
「わたしも」
嘘ではなかった。緊張している。だがセレスティアの緊張はナターシャのものとは質が違う。
王都には敵がいる。
宰相ガルニエ。その娘イザベラ。副宰相マティアス。宰相派の貴族たち。
そして――王太子アレクシス。
前世でセレスティアの処刑を命じた人物。冷酷で無感動な目で断頭台を見下ろした王太子。
今は五歳のはずだ。まだ無垢かもしれない。前世の冷酷さはまだ芽生えていないかもしれない。
だが会わなければならない。
前世の処刑者と向き合わなければならない。
セレスティアの手が震えた。胸のブローチに触れる。銀の鷲。碧い石。白い聖石。父からの贈り物。
大丈夫。一人ではない。
「ナターシャ、おうとでもいっしょにいてくれる?」
「もちろんです、お嬢様。どこへでもお供します」
ナターシャの声は温かかった。
「ありがとう。たよりにしてる」
「はい! お任せください!」
ナターシャは胸を張った。十四歳の少女の真っ直ぐな瞳。この子の忠誠心はこの二年で揺るぎないものになっていた。
◇
三日目の午後。
馬車が丘を越えた時、それが見えた。
王都アウレリア。
白亜の城壁が太陽の光を受けて輝いている。高い尖塔が天を突き、城壁の内側には無数の屋根が並んでいる。王宮の金色のドームが都市の中央に聳え、その周囲を貴族の邸宅と商店街が取り囲んでいる。
巨大な都市。この国の心臓。政治と権力と陰謀の中枢。
セレスティアは窓から目を離せなかった。
前世の記憶が叫んでいる。あの城壁の中に断頭台がある。処刑広場がある。群衆の罵声がある。冷たい刃がある。
手が震えた。呼吸が乱れた。
三秒吸う。三秒止める。三秒吐く。三秒止める。
だが今度は呼吸法だけでは足りなかった。恐怖が強すぎる。王都という場所そのものが、PTSDの巨大な引き金になっている。
その時、馬車の外から声が聞こえた。
「お嬢様」
ヴォルフの声。馬上から、窓越しに。
「前だけを見てください」
短い言葉。だがその声に、不思議な力があった。命令でも懇願でもない。ただ事実を述べるような、静かな声。
前だけを見る。
セレスティアは息を整え、前を見た。
馬車の進む先。王都の城門。その向こうに広がる未知の戦場。
恐怖はある。消えない。だが前を向くことはできる。
「ありがとう、ヴォルフさま」
「……はい」
ヴォルフはそれきり黙った。だが馬を少し寄せて、馬車の窓のすぐ傍を並走した。視界を半分遮るように。
セレスティアの視界から、処刑広場の方角が消えた。
代わりに見えるのは、ヴォルフの背中と、青い空と、白い雲。
この男は何も知らない。セレスティアの前世も、PTSDも、処刑の記憶も。だが何かを察している。護衛としての直感が、主人の恐怖を感じ取っている。
良い護衛だ。
◇
城門を通過し、王都の街路に入った。
石畳の上を馬車が揺れる。窓の外に王都の風景が流れていく。商店。市場。行き交う人々。馬車と騎馬と荷車の喧騒。
セレスティアは目を閉じなかった。
見る。全てを見る。
前世では恐怖の地でしかなかった王都を、今世では戦場として見る。
どの通りにどんな店がある。どの角に衛兵が立っている。貴族の邸宅はどこに集中している。王宮への道はどう繋がっている。
五歳の目が、情報を吸収していく。
やがて馬車は貴族街に入った。大きな邸宅が並ぶ静かな通り。
「あれが公爵家の王都別邸よ」
リリアーナが窓の外を指差した。白い壁に青い屋根の三階建て。公爵家の紋章が門に掲げられている。
馬車が止まった。門が開き、別邸の使用人たちが出迎えた。
セレスティアは馬車から降りた。
王都の大地に、五歳の足が着いた。
セレスティアは別邸の門をくぐった。
戦いが、始まる。




