「女中の子」ナターシャ視点
アルヴェイン公爵家に来たのは、十二歳の時だった。
父を亡くした翌朝、まだ暗いうちに家を出た。二時間歩いた。王都の北側、大きな屋敷の前に着いた。
「ここに行け」
亡くなる前、父がそう言った。
鉄の門があった。石の塀が続いていた。中から犬の声がした。
「働くんだぞ。言われたことをきちんとやれ。余計なことは言うな」
「うん」
「食事と寝る場所は出してもらえる。真面目に働け」
その言葉を思い出しながら、ナターシャは門を叩いた。
◇
父は農夫だった。
母は、ナターシャが五歳の時に熱で死んだ。
父は怠け者ではなかった。仕事はあった。ただ、一人では子供を育てながら仕事もできなかった。
ナターシャが七歳から、近所の家の手伝いをした。八歳からは料理を覚えた。十歳には一人で家事の大半ができた。
それでも足りなかった。
「奉公に出ろ。大きな家に行けば、食べさせてもらえる」
父がそう言ったのは、ナターシャが十二歳になる少し前だった。
嫌だとは言わなかった。言っても変わらないと思った。
それより、父が申し訳なさそうな顔をしているのが、見ていられなかった。
◇
屋敷の中に通された。
広かった。
入口の廊下だけで、家より広かった。天井が高かった。窓に布がかかっていた。絨毯が敷いてあった。
「こちらです」
案内の女性がいた。四十代くらいだった。厳しい顔をしていた。
「ヴェルナー家政婦長です。あなたに仕事を教えます。最初の三ヶ月は見習いです。役に立たなければ帰ってもらいます」
「はい」
「はっきり返事をしなさい」
「はい」
「声が小さい」
「はい」
家政婦長が少しため息をついた。
◇
最初の仕事は廊下の掃除だった。
朝六時に起きた。下の階から上の階まで、全部の廊下を箒で掃いた。その後、雑巾がけをした。
終わったら台所の手伝いをした。野菜を切った。鍋を洗った。水を運んだ。
昼食を自分で食べる時間は十五分だった。
午後も掃除をした。部屋の窓を拭いた。カーテンの埃を払った。
夕方になると、夕食の準備の手伝いをした。
夜、寝た。
翌日、また同じことをした。
◇
屋敷には何人も使用人がいた。
料理人が三人。庭師が二人。馬丁が一人。客室の管理をする人。帳簿をつける人。
女中はナターシャを含めて五人いた。
先輩の女中はナターシャより年上だった。全員が十五歳以上だった。
「珍しいね、十二歳で来たの」
ヨーナという十六歳の先輩が言った。
「珍しいですか」
「ここは普通十四か十五から取る。なんで十二歳で来たの」
「……家の事情で」
「そっか」
それだけだった。
ヨーナは親切だった。仕事のやり方を教えてくれた。家政婦長に叱られそうな時、助け舟を出してくれた。
◇
一ヶ月経って、ようやく屋敷の全体が見えてきた。
アルヴェイン公爵家。貴族の大きな家だった。主の公爵は仕事が多い人で、屋敷にいないことも多かった。奥方が家を取り仕切っていた。
子供が一人いる、と聞いた。
三歳になるお嬢様だとも聞いた。
「お嬢様は別の棟にいる。あなたはまだ近づかなくていい」
家政婦長が言った。
「分かりました」
「子供の世話は別の人間がする。あなたは廊下と台所の仕事に集中しなさい」
◇
その子供を初めて見たのは、来てから三日後だった。
廊下を掃除していた。奥の棟の廊下だった。
乳母が歩いてきた。
腕の中に小さな子供がいた。
毛布に包まれていた。小さかった。目が開いていた。
目が合った。
目が、大きかった。
子供の目は大きい。それは分かっていた。でも、その目は何か違った。
じっと見ていた。
小さなお嬢様が、ナターシャを見ていた。
乳母が通り過ぎた。
◇
その日の夜、ヨーナに聞いた。
「お嬢様の目って変じゃないですか」
ヨーナが少し驚いた顔をした。
「変?」
「じっと見てくる感じがして。三歳なのに」
「ああ、セレスティア様ね。確かに」
「怖いですか」
「怖くはない。ただ——落ち着かない感じはある。見られると」
「わたしも」
「でもかわいいじゃない、あの子」
「かわいいですよ、でも」
「慣れるよ。そのうち」
◇
慣れなかった。
あの目を思い出した。
見ていた、というより、確認していた、という感じだった。ナターシャが何者かを確認するような目だった。
三歳の子供がそんな目をするはずがない、とは分かっていた。
でも、そう感じた。
◇
その夜、眠る前に思い出した。
父の顔を思い出した。
門の前で「余計なことは言うな」と言った顔。申し訳なさそうな顔。
手紙は書けなかった。文字が書けなかった。
父から手紙が来ることもなかった。もう、この世にいなかったから。
月に一度、給金の一部を取っておいた。それが、父に見せられない便りの代わりだった。
◇
三ヶ月が経った。
ナターシャは十二歳のままだった。
仕事を覚えた。家政婦長に怒られることが減った。廊下の掃除が速くなった。台所の仕事も任されるようになった。
屋敷に慣れた。
セレスティア様は三歳だった。
あの目は、変わらなかった。
慣れなかった。
でも、なぜか目が離せなかった。




