走った後は
扉の前を離れる日が来た。
分かっていた。いつかこの日が来ることは。お嬢様が——セレスティア様が、アレクシス陛下のもとへ嫁がれた日から。
俺の役目は終わった。
——いや。終わったのではない。引き継いだのだ。
◇
後任の騎士は、真面目そうな男だった。
二十代前半。姿勢がいい。目に曇りがない。剣筋も悪くない。カタリナが推薦した。カタリナの目は信用できる。
引き継ぎの日。俺は後任を廊下に連れて行った。
お嬢様の——セレスティア様の居室の前。
「ここがお前の持ち場だ」
「はい」
「一つ、伝えておくことがある」
後任が背筋を正した。
「お嬢様が泣いた時は、ハンカチを」
「は」
「ラベンダー水で洗ったものを。予備は常に三枚」
後任の目が——困惑していた。
無理もない。護衛騎士の引き継ぎで、ハンカチの洗い方を教える先任がどこにいる。
だが俺にとっては、剣技の引き継ぎより重要だった。
「……ラベンダー水、ですか」
「フリーデリケという女がいる。ラベンダー農家だ。ナターシャに聞けば分かる。その農園のラベンダーでなければ駄目だ」
後任の困惑が深まった。
構わない。分からなくていい。ただ覚えろ。
「お嬢様が扉を閉じた時は——開けるな。ただ、前に立て。それだけでいい」
「……はい」
「お嬢様の歩調が落ちた日は、半歩近くに立て。言葉は要らない。聞くな。ただ——いろ」
後任は黙って頷いた。
理解はしていないだろう。だがいい。時間が教える。あの扉の前を守り続ければ、いずれ分かる。
俺も——最初は何も分からなかった。
◇
新しい役職を与えられた。
宮廷護衛隊の監督官。
机仕事が増えた。報告書。勤務表。人員配置。剣を振る時間より、筆を持つ時間の方が長くなった。
執務室の窓は、中庭に面している。
偶然ではない。カタリナが手を回した。「先輩、あの窓の部屋がいいですよね」と、聞いてもいないのに。
窓から——お嬢様が見える。
中庭を歩いている。アレクシス陛下と並んで。銀の髪が風に揺れている。背筋が真っ直ぐだ。歩幅が広い。
もう俺の歩調に合わせる必要がない。
殿下が何か言った。お嬢様が——笑った。声は聞こえない。だが笑っている。口元が柔らかい。
あの笑い方を、俺は知らない。
あれは——俺の前では見せなかった顔だ。
嫉妬ではない。
安堵だ。
お嬢様が、俺の知らない顔で笑えるようになった。それは——俺が守りたかったものの、証だ。
窓から目を離した。報告書に目を落とした。
文字が滲んだ。
——目が疲れているだけだ。
◇
宮廷の厨房に足を運んだのは、仕事の帰りだった。
広い厨房。湯気と油の匂い。忙しく動く料理人たち。
その中に——見覚えのある背中があった。
「トビアス」
振り返った男は、あの頃の面影を残していた。手先が器用だった路地裏の仲間。公爵家で料理人見習いになった少年。今は宮廷厨房の副料理長だ。
「ヴォルフか。久しぶりだな」
「ああ」
「宮廷に来たと聞いた。監督官だって? 出世したな」
「……そうでもない」
トビアスが鍋の火を弱め、こちらを見た。目を細めた。
「お前、笑うようになったな」
「笑ってない」
「笑ってるよ。口じゃない。目が笑ってる」
俺は——何も言えなかった。
「路地裏にいた頃のお前は、目が死んでたからな。公爵邸に来てからも、ずっと氷みたいな目をしてた。それが——変わった」
「……変わってない」
「変わったよ」
トビアスがスープの味見をした。何かを足した。
「ルッツも元気だぞ。領地で馬の世話をしてる。去年、子供が生まれた」
「そうか」
「お前に手紙を書きたいと言ってた。だがお前、返事を書かないだろうと思って止めた」
「……書く」
「嘘つけ」
トビアスが笑った。
路地裏で三人、石畳の上で眠った夜を思い出した。腹が減って、寒くて、それでも隣に体温があった。
あの頃から——俺たちは変わった。
トビアスは料理人になった。ルッツは馬の世話をして、父親になった。
俺は——剣を握った。
それぞれの場所で、それぞれの生き方を見つけた。路地裏を出て。
あの日、公爵閣下が飯を食わせてくれなかったら。
俺たちは——どうなっていたか。
考えても仕方がない。だが考えてしまう。
「トビアス」
「何だ」
「……美味い飯を作れ」
「当たり前だ。誰に言ってる」
それだけ言って、厨房を出た。
◇
カタリナが執務室に来た。
報告書を持って。いつものように。
「先輩。後任の子、頑張ってますよ」
「そうか」
「ラベンダー水のハンカチ、ちゃんと用意してました。三枚。数えましたよ、わたし」
「……数えるな」
「でも先輩が心配してると思って」
「心配していない」
カタリナが笑った。赤い髪が揺れた。
「嘘ばっかり。先輩、窓の外ばっかり見てるじゃないですか」
「仕事をしろ」
「はーい」
カタリナが出て行った。
——窓の外を見ていた。確かに。
中庭にお嬢様の姿はなかった。時刻が違う。午後はお嬢様は執務室にいる。ここからは見えない。
だが——つい、目が向く。
癖だ。十年以上の癖は、簡単には抜けない。
◇
春が来た。
桜の季節。宮廷の庭に桜が咲いた。薄紅色の花弁が風に舞っている。
巡回の途中だった。
回廊を歩いていた。監督官の巡回。かつてのように誰かの三歩後ろではなく、一人で。
開け放たれた窓から——声が聞こえた。
笑い声。
お嬢様の笑い声。
足が止まった。
窓の向こう。中庭のベンチに、人が見えた。
アレクシス陛下がいた。お嬢様がいた。エドヴァルト様がいた。フェリクス様がいた。ナターシャがいた。フリーデリケがいた。
桜の木の下で。笑っていた。
お嬢様の笑い声が、開いた窓から回廊に届いた。
——閉じた扉の向こうからではなく。
開いた窓から。
それだけのことが——胸に来た。
扉を閉じなくていい世界。泣く時に部屋に籠もらなくていい世界。笑い声が壁を越えて届く世界。
それが——俺が守りたかったものだ。
お嬢様が震えなくていい世界。
あの三歳の子供が「首を切られる」と泣いた夜から、ずっと——俺が剣にかけて守ると誓った世界。
今、目の前にある。
◇
回廊に立ったまま——しばらく動けなかった。
桜の花弁が風に乗って、窓から入ってきた。薄紅色の欠片が、俺の肩に落ちた。
お嬢様がふと——こちらを向いた。
窓越しに目が合った。
遠い。距離がある。かつての三歩ではない。もっと遠い。
だがお嬢様は——微笑んだ。
小さく。俺にだけ分かるように。
俺は——頭を下げた。深く。
顔を上げた時、お嬢様はもう殿下の方を向いていた。また笑い声が聞こえた。
それでいい。
◇
懐に手を入れた。
指先に布が触れた。白い布。丁寧に畳まれている。ラベンダーの香りがする。
ハンカチ。
もう渡す相手はいない。後任に引き継いだ。
だが——持っている。
白い布。ラベンダーの香り。予備は三枚。
いつでも。
回廊を歩き出した。一人で。巡回を続ける。
窓は開いている。笑い声が届く。桜が舞う。
俺はもう、扉の前には立たない。
だが——この宮廷のどこかにいる。この回廊のどこかを歩いている。
お嬢様の知らない場所で。お嬢様の見えない距離で。
それでも——守っている。
剣はある。ハンカチもある。
それだけあれば、十分だ。
◇
桜の花弁が一枚、窓から舞い込んだ。
俺の掌に落ちた。
薄紅色。軽い。風が吹けば飛ぶ。
握りはしなかった。
掌に乗せたまま、歩いた。風が運んでくれるまで。
回廊の端まで来た。ここからは中庭は見えない。笑い声も——遠くなった。
だがまだ聞こえる。微かに。
花弁が風に飛んだ。掌から離れて、空に消えた。
俺は立ち止まった。
周囲を見た。回廊に人影はない。
報告する相手もいない。
だが——口が動いた。
「……異常なし」
誰にも届かない声で。
誰にも聞こえない声で。
報告した。
今日もお嬢様は笑っている。扉は開いている。世界は穏やかだ。
異常なし。
それだけ確認して——歩き出した。
ラベンダーの香りが、微かに残った。




