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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝②「扉の前の男」

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走った後は

 扉の前を離れる日が来た。


 分かっていた。いつかこの日が来ることは。お嬢様が——セレスティア様が、アレクシス陛下のもとへ嫁がれた日から。


 俺の役目は終わった。


 ——いや。終わったのではない。引き継いだのだ。


 ◇


 後任の騎士は、真面目そうな男だった。


 二十代前半。姿勢がいい。目に曇りがない。剣筋も悪くない。カタリナが推薦した。カタリナの目は信用できる。


 引き継ぎの日。俺は後任を廊下に連れて行った。


 お嬢様の——セレスティア様の居室の前。


 「ここがお前の持ち場だ」


 「はい」


 「一つ、伝えておくことがある」


 後任が背筋を正した。


 「お嬢様が泣いた時は、ハンカチを」


 「は」


 「ラベンダー水で洗ったものを。予備は常に三枚」


 後任の目が——困惑していた。


 無理もない。護衛騎士の引き継ぎで、ハンカチの洗い方を教える先任がどこにいる。


 だが俺にとっては、剣技の引き継ぎより重要だった。


 「……ラベンダー水、ですか」


 「フリーデリケという女がいる。ラベンダー農家だ。ナターシャに聞けば分かる。その農園のラベンダーでなければ駄目だ」


 後任の困惑が深まった。


 構わない。分からなくていい。ただ覚えろ。


 「お嬢様が扉を閉じた時は——開けるな。ただ、前に立て。それだけでいい」


 「……はい」


 「お嬢様の歩調が落ちた日は、半歩近くに立て。言葉は要らない。聞くな。ただ——いろ」


 後任は黙って頷いた。


 理解はしていないだろう。だがいい。時間が教える。あの扉の前を守り続ければ、いずれ分かる。


 俺も——最初は何も分からなかった。


 ◇


 新しい役職を与えられた。


 宮廷護衛隊の監督官。


 机仕事が増えた。報告書。勤務表。人員配置。剣を振る時間より、筆を持つ時間の方が長くなった。


 執務室の窓は、中庭に面している。


 偶然ではない。カタリナが手を回した。「先輩、あの窓の部屋がいいですよね」と、聞いてもいないのに。


 窓から——お嬢様が見える。


 中庭を歩いている。アレクシス陛下と並んで。銀の髪が風に揺れている。背筋が真っ直ぐだ。歩幅が広い。


 もう俺の歩調に合わせる必要がない。


 殿下が何か言った。お嬢様が——笑った。声は聞こえない。だが笑っている。口元が柔らかい。


 あの笑い方を、俺は知らない。


 あれは——俺の前では見せなかった顔だ。


 嫉妬ではない。


 安堵だ。


 お嬢様が、俺の知らない顔で笑えるようになった。それは——俺が守りたかったものの、証だ。


 窓から目を離した。報告書に目を落とした。


 文字が滲んだ。


 ——目が疲れているだけだ。


 ◇


 宮廷の厨房に足を運んだのは、仕事の帰りだった。


 広い厨房。湯気と油の匂い。忙しく動く料理人たち。


 その中に——見覚えのある背中があった。


 「トビアス」


 振り返った男は、あの頃の面影を残していた。手先が器用だった路地裏の仲間。公爵家で料理人見習いになった少年。今は宮廷厨房の副料理長だ。


 「ヴォルフか。久しぶりだな」


 「ああ」


 「宮廷に来たと聞いた。監督官だって? 出世したな」


 「……そうでもない」


 トビアスが鍋の火を弱め、こちらを見た。目を細めた。


 「お前、笑うようになったな」


 「笑ってない」


 「笑ってるよ。口じゃない。目が笑ってる」


 俺は——何も言えなかった。


 「路地裏にいた頃のお前は、目が死んでたからな。公爵邸に来てからも、ずっと氷みたいな目をしてた。それが——変わった」


 「……変わってない」


 「変わったよ」


 トビアスがスープの味見をした。何かを足した。


 「ルッツも元気だぞ。領地で馬の世話をしてる。去年、子供が生まれた」


 「そうか」


 「お前に手紙を書きたいと言ってた。だがお前、返事を書かないだろうと思って止めた」


 「……書く」


 「嘘つけ」


 トビアスが笑った。


 路地裏で三人、石畳の上で眠った夜を思い出した。腹が減って、寒くて、それでも隣に体温があった。


 あの頃から——俺たちは変わった。


 トビアスは料理人になった。ルッツは馬の世話をして、父親になった。


 俺は——剣を握った。


 それぞれの場所で、それぞれの生き方を見つけた。路地裏を出て。


 あの日、公爵閣下が飯を食わせてくれなかったら。


 俺たちは——どうなっていたか。


 考えても仕方がない。だが考えてしまう。


 「トビアス」


 「何だ」


 「……美味い飯を作れ」


 「当たり前だ。誰に言ってる」


 それだけ言って、厨房を出た。


 ◇


 カタリナが執務室に来た。


 報告書を持って。いつものように。


 「先輩。後任の子、頑張ってますよ」


 「そうか」


 「ラベンダー水のハンカチ、ちゃんと用意してました。三枚。数えましたよ、わたし」


 「……数えるな」


 「でも先輩が心配してると思って」


 「心配していない」


 カタリナが笑った。赤い髪が揺れた。


 「嘘ばっかり。先輩、窓の外ばっかり見てるじゃないですか」


 「仕事をしろ」


 「はーい」


 カタリナが出て行った。


 ——窓の外を見ていた。確かに。


 中庭にお嬢様の姿はなかった。時刻が違う。午後はお嬢様は執務室にいる。ここからは見えない。


 だが——つい、目が向く。


 癖だ。十年以上の癖は、簡単には抜けない。


 ◇


 春が来た。


 桜の季節。宮廷の庭に桜が咲いた。薄紅色の花弁が風に舞っている。


 巡回の途中だった。


 回廊を歩いていた。監督官の巡回。かつてのように誰かの三歩後ろではなく、一人で。


 開け放たれた窓から——声が聞こえた。


 笑い声。


 お嬢様の笑い声。


 足が止まった。


 窓の向こう。中庭のベンチに、人が見えた。


 アレクシス陛下がいた。お嬢様がいた。エドヴァルト様がいた。フェリクス様がいた。ナターシャがいた。フリーデリケがいた。


 桜の木の下で。笑っていた。


 お嬢様の笑い声が、開いた窓から回廊に届いた。


 ——閉じた扉の向こうからではなく。


 開いた窓から。


 それだけのことが——胸に来た。


 扉を閉じなくていい世界。泣く時に部屋に籠もらなくていい世界。笑い声が壁を越えて届く世界。


 それが——俺が守りたかったものだ。


 お嬢様が震えなくていい世界。


 あの三歳の子供が「首を切られる」と泣いた夜から、ずっと——俺が剣にかけて守ると誓った世界。


 今、目の前にある。


 ◇


 回廊に立ったまま——しばらく動けなかった。


 桜の花弁が風に乗って、窓から入ってきた。薄紅色の欠片が、俺の肩に落ちた。


 お嬢様がふと——こちらを向いた。


 窓越しに目が合った。


 遠い。距離がある。かつての三歩ではない。もっと遠い。


 だがお嬢様は——微笑んだ。


 小さく。俺にだけ分かるように。


 俺は——頭を下げた。深く。


 顔を上げた時、お嬢様はもう殿下の方を向いていた。また笑い声が聞こえた。


 それでいい。


 ◇


 懐に手を入れた。


 指先に布が触れた。白い布。丁寧に畳まれている。ラベンダーの香りがする。


 ハンカチ。


 もう渡す相手はいない。後任に引き継いだ。


 だが——持っている。


 白い布。ラベンダーの香り。予備は三枚。


 いつでも。


 回廊を歩き出した。一人で。巡回を続ける。


 窓は開いている。笑い声が届く。桜が舞う。


 俺はもう、扉の前には立たない。


 だが——この宮廷のどこかにいる。この回廊のどこかを歩いている。


 お嬢様の知らない場所で。お嬢様の見えない距離で。


 それでも——守っている。


 剣はある。ハンカチもある。


 それだけあれば、十分だ。


 ◇


 桜の花弁が一枚、窓から舞い込んだ。


 俺の掌に落ちた。


 薄紅色。軽い。風が吹けば飛ぶ。


 握りはしなかった。


 掌に乗せたまま、歩いた。風が運んでくれるまで。


 回廊の端まで来た。ここからは中庭は見えない。笑い声も——遠くなった。


 だがまだ聞こえる。微かに。


 花弁が風に飛んだ。掌から離れて、空に消えた。


 俺は立ち止まった。


 周囲を見た。回廊に人影はない。


 報告する相手もいない。


 だが——口が動いた。


 「……異常なし」


 誰にも届かない声で。


 誰にも聞こえない声で。


 報告した。


 今日もお嬢様は笑っている。扉は開いている。世界は穏やかだ。


 異常なし。


 それだけ確認して——歩き出した。


 ラベンダーの香りが、微かに残った。




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