俺の剣は
お嬢様が変わった。
十三歳になった頃からだった。声が変わった。歩幅が変わった。言葉が変わった。
「おにいさま」が「兄様」になった。
肩車をせがまなくなった。ハンカチを求めて泣かなくなった。庭で転んでも自分で立ち上がるようになった。
当たり前のことだ。人は成長する。三歳の子供がいつまでも三歳のままでいるはずがない。
分かっている。
分かっているが——時折、俺は戸惑った。
◇
お嬢様は背が伸びた。
銀の髪が腰まで届くようになった。横顔に幼さが消え、代わりに凛とした輪郭が現れた。公爵閣下の気品と、奥方様の美しさを受け継いでいる。誰の目にも明らかだった。
社交界では「氷の令嬢」と呼ばれ始めていた。
俺は知っている。氷ではない。あの子は——あの方は、誰よりも熱い。ただ、その熱を見せる相手を選んでいるだけだ。
十三歳のお嬢様は、もう泣かない。
——はずだった。
◇
ある夜のことだ。
深夜。巡回から戻った俺は、お嬢様の部屋の前に立った。灯りは消えている。就寝されたのだろう。
踵を返しかけた。
声が聞こえた。
微かな——嗚咽。
壁越しに伝わるほど小さな声ではない。だが俺の耳は拾った。九年間、この扉の前を守る中で鍛えた耳だ。お嬢様の呼吸の変化を聞き逃すことはない。
泣いている。
扉に手をかけることはしない。お嬢様は——もう三歳ではない。
だが扉の前から動くこともしない。
立った。黙って。朝まで。
朝、扉が開いた。
お嬢様が出てきた。目は少し赤かったが、背筋は真っ直ぐだった。俺を見上げて——ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「おはよう、ヴォルフ」
「おはようございます。お嬢様」
それだけだ。
それだけでいい。
だが俺はいつもより半歩——近くに立った。
お嬢様は何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ歩く速度を落とした。
言葉はない。説明もない。
それが——俺たちの会話だった。
◇
十四歳の秋。
回廊を歩いていた。お嬢様の三歩後ろ。いつもの距離。
空気が変わった。
殺気。
二つ。
右の柱の影に一つ。天井の梁に一つ。訓練された殺し屋の気配だ。素人ではない。
身体が動いた。思考より先に。
右手がお嬢様の肩を掴み、背後に庇った。同時に左手を振った。
飛来物——投擲ナイフ。
素手で弾いた。掌が裂けた。血が飛んだ。痛みはなかった。痛みを感じている暇がなかった。
剣を抜いた。
一歩。踏み込み。斬り上げ。
柱の影から飛び出した刺客の胸を裂いた。浅い。だが動きを止めるには十分だ。
振り返る。二人目——。
「はあっ!」
赤い髪が閃いた。
カタリナだ。天井の梁から降りた二人目の刺客を、地面に叩きつけていた。鎧の重さごと。圧倒的な打撃。刺客は意識を失った。
「ヴォルフ先輩、二人目確保!」
「ああ」
終わった。
数秒だった。
お嬢様は——俺の背中の後ろで、息を止めていた。
「お嬢様。もう大丈夫です」
振り返った。
お嬢様の顔は白かった。だが——怯えてはいなかった。怯えの向こうに、何か別のものがあった。怒りに似た——覚悟。
三歳の頃のお嬢様なら、泣いていただろう。
十四歳のお嬢様は、泣かなかった。
「ヴォルフ。手」
「は」
「手。血が出てる」
ああ。そういえば。
投擲ナイフを素手で弾いた左手から、血が滴っていた。
お嬢様が自分のハンカチを取り出した。白い布。ラベンダーの香り。俺が洗って渡したものだ。
「お嬢様、それは——」
「黙って」
お嬢様が俺の手を取り、ハンカチを巻いた。銀の髪が揺れた。指が震えていた。
——ああ。
泣いている。泣かないようにしている。だが震えている。
この瞬間だけ、お嬢様は三歳に戻る。
何も言わなかった。お嬢様が手当てを終えるまで、黙って立っていた。
カタリナが刺客を縛り上げながら、こちらを見ていた。何か言いたそうだったが——黙っていた。空気を読む能力だけは、あの後輩は優秀だ。
その夜。
報告書を書き終えた後、自室に戻った。
手が震えていた。
恐怖ではない。
間に合った——という安堵だ。
もし半歩遅れていたら。もし殺気に気づくのが一瞬遅かったら。
あのナイフはお嬢様の——。
考えるな。考えても意味がない。間に合った。それだけだ。
だが手は震え続けた。
朝まで。
◇
十五歳。
その日は——異様だった。
お嬢様は朝から部屋を出なかった。
体調が悪いわけではない。前日の夕食も残さず食べていた。熱もない。咳もない。
だが——出てこない。
扉は閉じたまま。中から物音はする。生きている。動いている。だが出てこない。
俺は扉の前に立った。いつものように。
昼になっても出てこない。
ナターシャが食事を運んだ。扉の前に置いた。俺と目が合った。ナターシャの目は——何かを知っている目だった。だが何も言わなかった。俺も聞かなかった。
午後になった。
足音が聞こえた。重い足音。聞き慣れた足音。
エドヴァルト様だ。
「ヴォルフ。セレスティアは中か」
「はい」
「開けろ」
「申し訳ありません」
エドヴァルト様の目が細くなった。
「俺は兄だぞ」
「存じております。ですが——お嬢様が扉を開けていません」
お嬢様は鍵をかけていなかった。物理的には開けられる。だが——扉を閉じている。それはお嬢様の意思だ。
お嬢様の意思を、俺は守る。たとえ相手がエドヴァルト様であっても。
エドヴァルト様は——怒らなかった。
しばらく俺を見つめた後、壁に背を預けて、床に座った。
「なら、ここにいる」
「……は」
「扉は開けない。だがここにいる。それくらいはいいだろう」
俺は答えなかった。答える必要がなかった。
エドヴァルト様は壁にもたれて目を閉じた。
◇
しばらくして、別の足音が聞こえた。
軽い足音。だが正確な足音。
フェリクス様だった。眼鏡の奥の目が、廊下に座る兄と、扉の前に立つ俺を見た。
「兄上。何をしているのですか」
「見ての通りだ」
「……そうですか」
フェリクス様は何も聞かなかった。エドヴァルト様の隣に座った。
三人の男が、廊下にいた。
何も言わない。何も聞かない。ただ——扉の前にいる。
夕暮れの光が窓から差し込んだ。影が長く伸びた。
エドヴァルト様が口を開いた。
「あいつは——何を抱えてるんだ」
独り言だったのか。俺に聞いたのか。分からない。
「分かりません」
正直に答えた。
「だが——重いものだということは、分かります」
フェリクス様が眼鏡を押し上げた。
「僕たちにできることは」
「ここにいることだ」
エドヴァルト様が言った。
俺も——同じことを思っていた。
◇
日が沈んだ。
廊下が暗くなった。使用人が燭台を持ってきた。三人の男がいることに驚いたが、何も言わずに灯りを置いて去った。
エドヴァルト様はいつの間にか眠っていた。壁にもたれたまま。フェリクス様は本を読んでいた。どこから取り出したのか——あの方はいつも本を持っている。
俺は立っていた。
ずっと。
夜が更けた頃——扉の向こうから、声が聞こえた。
「……ヴォルフ」
「はい」
「いる?」
「います」
沈黙。
「……ありがとう」
それだけだった。
扉は開かなかった。
だが——それでよかった。
◇
翌朝。お嬢様は何事もなかったかのように扉を開けた。背筋は真っ直ぐだった。目は少し赤かったが、それは夜更かしのせいだと言えば通る程度だった。
廊下で寝ていたエドヴァルト様を見て、目を丸くした。
「兄様。何をしているの」
「見ての通りだ。背中が痛い」
フェリクス様が本を閉じた。
「おはよう。セレスティア」
お嬢様の目が——潤んだ。一瞬だけ。
だがすぐに、いつもの顔に戻った。
「……おはようございます。兄様。フェリクス兄様」
歩き出した。俺はその三歩後ろについた。
あの日、お嬢様が何を抱えていたのか。俺は知らない。
知らなくていい。
◇
九年間。
俺はお嬢様の傍にいた。三歳から。ずっと。
その九年間で——一つだけ、確信していることがある。
お嬢様は何かを知っている。
普通の令嬢が知り得ないことを。この世界の先にあるものを。
三歳の子供が「首を切られる」と泣いた日。俺はそれを子供の悪夢だと思った。
だが違った。
年を重ねるごとに分かった。あれは悪夢ではない。お嬢様は——何かを「覚えている」。
何を覚えているのか。どこで知ったのか。俺には分からない。
だが——関係ない。
◇
その言葉を口にしたのは、お嬢様が十五歳の春だった。
書斎で二人きりだった。お嬢様が窓辺に座って外を眺めていた。俺は扉の横に立っていた。
「ヴォルフ」
「はい」
「九年間——ずっと聞きたかったことがある」
俺は黙った。
「あなたは——わたしのことを、どう思っている?」
静かな声だった。試すような声ではない。怖がっているような——声だった。
俺は——口を開いた。
言葉が出てきた。九年間、剣の代わりに飲み込み続けた言葉が。
「私はただ——お嬢様を守る」
声が出た。自分でも驚くほど、はっきりと。
「それだけです。理由は必要ありません。秘密も必要ありません。お嬢様が何者であっても。何を知っていても。何を隠していても」
言い過ぎた。
そう思った。言った瞬間に後悔した。俺は寡黙でいるべきだ。言葉ではなく剣で語るべきだ。九年間そうしてきた。なぜ今——。
お嬢様が振り返った。
泣いていた。
銀の髪が揺れて、涙が光った。
「ヴォルフがいなかったら、わたしはとっくに壊れてた」
——後悔が消えた。
全部。一瞬で。
この人を守るために俺の剣がある。
義務だと思っていた。
恩返しだと思っていた。
違った。
これは——俺が選んだことだ。公爵閣下への恩も。騎士としての義務も。全部本当だ。だがそれだけではない。
俺がここにいるのは、俺がここにいたいからだ。
この人が震えなくていい世界を作るために、俺の剣がある。
それが——俺の存在理由だ。
「……ハンカチをどうぞ。お嬢様」
懐から取り出した。白い布。ラベンダーの香り。予備は常に三枚。
お嬢様はそれを受け取って、顔を押さえた。
泣いていた。三歳の頃のように。
だがもう——あの頃の震えはなかった。




