扉の前
扉の前に立つ。
それが俺の任務になった。
◇
朝。
お嬢様が起きる前に、扉の前に立つ。
東棟の廊下。石壁。窓から差す朝日。花の匂い。侍女たちが行き来する足音。
扉の奥で、小さな声がする。寝起きの声。侍女の「おはようございます、お嬢様」という声。お嬢様の「おはよう」という声。
それを聞いて——今日が始まる。
◇
昼。
お嬢様は勉強をする。三歳にしては——いや、三歳だからこそ異常だ。文字を読む。数を数える。歴史の本を開く。三歳の子供がやることではない。
だが誰も止めない。公爵閣下も、奥様も、エドヴァルト様も。
俺も止めない。俺の仕事は守ることだ。口を出すことではない。
扉の前に立つ。本を読むページをめくる音を聞く。たまに独り言が聞こえる。小さな声で何かを呟いている。聞き取れない。聞き取ろうとも思わない。
◇
夜。
お嬢様が眠りにつく。侍女が蝋燭を消す。扉の隙間から漏れていた光が消える。
静寂。
夜の廊下は冷える。だが動かない。
深夜。交代の騎士が来るまで、ここに立つ。
朝から夜。夜から朝。
扉の前。
それが俺の世界になった。
◇
お嬢様の一日は——音で分かる。
笑い声が多い日は良い日だ。フリーデリケと何かを作っている。花を摘んでいる。エドヴァルト様と庭を歩いている。銀色の髪が陽光に透ける。
そういう日の足音は軽い。廊下を歩くとき、小さな靴がぱたぱたと鳴る。
静かな日は——悪い日だ。
扉の奥から音がしない。本のページをめくる音だけが、長い間隔で聞こえる。侍女が話しかける声。お嬢様の返事は短い。
そういう日の足音は重い。ぱたぱたではなく、ゆっくりと、一歩ずつ。
泣く夜が——一番悪い日だ。
深夜。扉の向こうから、微かな嗚咽が聞こえる。布団に顔を押しつけて泣いている。声を殺している。三歳の子供が——声を殺して泣く。
その音を聞くたび——拳を握る。
何もできない。扉の向こうに踏み込む権限は俺にはない。慰めの言葉も知らない。
ただ——半歩。
扉に半歩、近づく。
意味はない。扉越しに何かが伝わるわけがない。自己満足ですらない。
だが——そうしなければ、立っていられなかった。
◇
気づかれていた。
悪い日の翌朝。お嬢様が部屋から出てくる。目が少し赤い。だが笑っている。三歳の子供が——笑って見せている。
「おはようございます、ヴォルフさま」
「——おはようございます」
歩き出す。俺は後ろを歩く。
いつもなら、お嬢様は早足だ。小さな脚でぱたぱたと。俺は大股で追いかける。
だが悪い日の翌朝——お嬢様は遅い。
ゆっくりと歩く。一歩、一歩。俺の歩幅に合わせるように。
違う。俺が半歩近づいたことを——知っている。
だから歩調を合わせている。俺の隣に近い位置を歩いている。
言葉はなかった。俺も何も言わない。お嬢様も何も言わない。
ただ——並んで歩く。
それが俺たちの会話だった。
◇
四歳になった。
お嬢様はますます——異常だった。
五歳の教養を持つ三歳児が、今度は七歳の判断力を持つ四歳児になっていた。侍女たちは「お嬢様は賢い」と目を細めている。エドヴァルト様は誇らしげだ。
俺だけが——違和感を抱えていた。
賢いのではない。知っているのだ。まるで一度通った道を歩き直しているように——この子は、知っている。
何を知っているのか。
問わない。
◇
王都への旅。
公爵閣下の命で、お嬢様を連れて王都に向かうことになった。エドヴァルト様の同行。護衛は俺を含む四人。馬車二台。
お嬢様は馬車の窓から外を見ていた。初めて見る景色に——いや。初めてではないような目で、景色を見ていた。
王都に入った。
大通りを進む。馬車の窓からお嬢様が外を眺めている。俺は馬上で、馬車の横についていた。
中央広場に差しかかった。
広場の奥に——処刑台がある。今は使われていない。だが木組みの台と、その上に据えられた古い断頭台は残っている。
お嬢様の息が変わった。
馬車の中から聞こえた。微かだが——確かに。呼吸が止まった。一瞬。そしてその後、浅く速い呼吸に変わった。
俺の身体が動いた。
考えるより先に。命令より先に。
馬を寄せた。馬車の窓と処刑台の間に、俺の身体を割り込ませた。お嬢様の視界から、あの台が見えないように。
「前だけを見てください」
声が出ていた。自分でも驚いた。
お嬢様が俺を見上げた。青みがかった翠の瞳が——揺れていた。恐怖で。
四歳の子供の目に、あんな恐怖が宿るはずがない。処刑台を見て怯える四歳児がいるはずがない。処刑台が何であるかさえ知らないはずだ。
だがあの目は——知っていた。
あの台の上で何が行われるか。刃が落ちる音。血の色。
知っていた。
お嬢様は小さく頷いた。視線を前に戻した。呼吸が——少しずつ落ち着いていった。
俺は馬車が広場を抜けるまで、その位置を動かなかった。
あとでエドヴァルト様に呼ばれた。
「なぜ馬を寄せた」
「……お嬢様の様子が変わりました」
「処刑台を見てか」
「……はい」
エドヴァルト様は少し黙った。
「お前は——よく見ているな」
それだけ言って、去った。
俺は命令で動いたのではない。初めてだった。公爵閣下の命令でも、騎士の義務でもなく——ただ、あの子の呼吸が変わったから。
それだけで身体が動いた。
◇
五歳の夜。
その日のことは、一生忘れない。
夜の巡回を終えて、扉の前に戻った。深夜だった。交代までまだ時間がある。
扉が——開いた。
内側から。
お嬢様が立っていた。寝間着姿。裸足。銀色の髪が乱れている。目が——赤かった。泣いていた。
「ヴォルフさま」
声が震えていた。
「——お嬢様。どうされましたか」
「ゆめを、みました」
また——夢。
「こわい、ゆめ」
膝をついた。目線を合わせた。
「どのような夢ですか」
聞くべきではなかったかもしれない。護衛が主人の夢の話を聞くのは職分を越えている。だが——あの目を見て、黙っていられなかった。
お嬢様は小さな手で自分の首に触れた。
「くびを、きられるゆめ」
——。
「かたなが、おちてくるの。おおきな、かたな。くびに。——いたくて。こわくて」
五歳の子供が。
斬首の夢を語っている。
首を切られる感覚を——知っている。痛みを。恐怖を。刃が落ちてくる瞬間を。
理解できなかった。だがあの目は嘘をついていない。
路地裏で学んだ。目は嘘をつかない。言葉は嘘をつく。だが目は——目だけは、嘘をつけない。
この子の目は——本物の恐怖を映していた。
夢ではない。
この子は——知っている。
何を知っているのか。なぜ知っているのか。分からない。理解の外にある。
だが——理解する必要はない。
俺の仕事は守ることだ。
「誰にも切らせません」
声が出た。自分の声が——低く、硬く、扉の前の廊下に響いた。
お嬢様の目が見開かれた。
「この剣にかけて。お嬢様の首には、誰一人、指一本触れさせません」
腰の剣に手を置いた。
誓いだった。公爵閣下の命令ではない。騎士の義務でもない。俺自身の——誓い。
お嬢様の目から涙が溢れた。声を殺さなかった。初めてだった。この子が声を上げて泣くのを聞いたのは。
「ヴォルフさまぁ——」
小さな手が俺の袖を掴んだ。
握り返さなかった。代わりに——ただ、そこにいた。扉の前に。この子の前に。
泣き止むまで。
お嬢様が部屋に戻って、扉が閉まって。
一人になった廊下で——俺は剣を抜いた。
刃を見た。研ぎ澄まされた鋼。光を映す刃。
この剣の意味が変わった。
公爵閣下への恩返しのための剣ではない。命令を遂行するための剣ではない。
この剣は——あの子のための剣だ。
震えなくていい。怯えなくていい。刃が落ちる夢を見なくていい。
俺がここにいる。扉の前に。
誰も通さない。
◇
フリーデリケに聞いた。
「お嬢様の好きな花は」
「ラベンダーですよ。お嬢様、ラベンダーの香りがお好きで。枕元にいつも小袋を置いていらっしゃるんです」
「そうか」
「あら、珍しい。ヴォルフさんがそんなこと聞くなんて」
「……別に」
その日から——手巾をラベンダー水で洗うようになった。
理由は特にない。
ただ——泣いたとき。手巾を差し出すとき。その布から好きな香りがしたら、少しだけ——楽になるかもしれない。
それだけのことだ。
◇
八歳になったお嬢様は、もう深夜に扉を開けて泣くことはなくなった。
だが——俺は知っている。
時々、扉の向こうから、微かな寝息の乱れが聞こえることを。夢を見ている。あの夢を。
そういう夜は——半歩、近づく。
意味はない。扉越しに何かが届くわけがない。
だが翌朝。お嬢様は少しだけ歩調を落とす。俺の隣を歩く。
「おはようございます、ヴォルフさま」
「——おはようございます」
それだけだ。
それだけでいい。
俺は扉の前に立つ。朝から夜。夜から朝。
この子が笑う日も。泣く夜も。
ここに立つ。
それが——俺の剣の使い道だ。




