任務
二十歳で近衛騎士団に入った。
エドヴァルト様の推薦だった。「こいつは使える」と、それだけ言って書類を出した。試験官が眉を上げたが、エドヴァルト様の剣の腕を知る者は何も言わなかった。
入団初日。同期が三十人いた。
貴族の次男や三男が多い。名門の出。礼儀正しい。よく喋る。
俺は誰とも喋らなかった。
◇
近衛騎士団の日常は、思っていたより静かだった。
朝五時に起床。訓練。巡回。訓練。巡回。就寝。その繰り返し。
夜、同期たちは酒場に行く。「おい、ヴォルフ。お前も来いよ」と誰かが言った。
「……いい」
「つまんねえ奴だな」
そう言われた。何度も。
つまらない奴だ。自分でもそう思う。酒は飲まない。雑談もしない。笑い方を知らない。路地裏では笑う理由がなかった。公爵邸で剣を握ってからは、笑う暇がなかった。
やがて誰も誘わなくなった。
それでいい。俺に必要なのは剣だけだ。
◇
剣の腕は認められていた。
入団三ヶ月で、同期では誰も俺に勝てなくなった。半年で先輩たちとも互角になった。一年経つ頃には、団の中でも上位に数えられるようになっていた。
隊長のグスタフが俺を呼んだ。
「お前、口は利けないのか」
「……利けます」
「なら使え。報告が短すぎる。もう少し詳しく言え」
「……異常なし」
「それだけか」
「異常がないので」
グスタフは額を押さえた。
「お前な——腕は確かだ。だが騎士は剣だけじゃない。仲間と連携しろ。言葉を使え」
言葉は嘘をつく。
そう思ったが、口には出さなかった。
◇
二十一歳の秋。
任務が入った。
王都南区の治安維持。貴族の馬車を狙う盗賊団の掃討。俺を含む五人の小隊で当たることになった。
南区——路地裏。
俺が育った場所だ。
石畳の隙間。ゴミの臭い。橋の下の暗がり。何も変わっていなかった。十三年経っても、路地裏は同じ顔をしていた。
子供が走り回っている。痩せた身体。汚れた服。かつての俺と同じ目をしている。
目を逸らした。
任務に集中しろ。
◇
盗賊の潜伏先を突き止めた。倉庫街の廃屋。七人。武装している。
小隊長のディートリヒが作戦を告げた。三人が正面。二人が裏口。俺は裏口の担当だった。
夜明け前に突入した。
正面で音が上がった。剣と剣がぶつかる音。怒号。
裏口から二人が飛び出してきた。
一人は俺が斬った。迷いはなかった。
もう一人は——走った。路地裏に逃げ込んだ。
追った。
暗い路地。入り組んだ道。だが俺はこの路地裏を知っている。この角を曲がれば行き止まりだ。追い詰められる。
曲がった。
——止まった。
行き止まりの壁際に、子供がいた。浮浪児。八歳くらい。壁に背中を押しつけて、目を見開いている。
盗賊がその子供の腕を掴んだ。
「来るな。来たらこのガキを——」
俺の剣が届く距離ではなかった。
三歩。たった三歩。だがその三歩の間に、盗賊の手が動いた。ナイフが光った。
——届かなかった。
◇
子供は死ななかった。
腕を斬られただけだ。深い傷だが、命に別状はない。治療師が処置をした。盗賊は捕らえた。任務は成功だ。
報告書にはそう書いた。「任務完了。負傷者一名。民間人の子供。軽傷」
軽傷。
軽傷——か。
あの子供の目を忘れられなかった。壁に背中を押しつけて、恐怖で凍りついた目。
かつての俺と同じ目だ。
守れなかった。
俺の剣が——届かなかった。
◇
夜。兵舎の寝台に横になった。眠れなかった。
目を閉じると、あの目が浮かぶ。子供の目。恐怖の目。
守れなかった。
たった三歩だった。三歩が——遠かった。
俺の剣が届かなかった。
何のための剣だ。何のために十二の頃から振り続けた。何のために近衛騎士団に入った。
守るためだ。公爵閣下への恩を返すために。この剣で、誰かを守るために。
なのに——守れなかった。
寝台の上で、拳を握った。爪が掌に食い込んだ。血が滲んだ。
翌朝。
隊長のグスタフに辞表を出した。
「考え直せ」
「……いえ」
「腕は団でも随一だ。一度の失敗で——」
「失敗ではありません」
グスタフが黙った。
「俺の剣が——足りなかったんです」
それ以上、何も言えなかった。言葉では足りない。いつだってそうだ。言葉では——何も伝えられない。
◇
近衛騎士団を辞めた。
行く宛がなかった。
路地裏に戻る気にはなれなかった。だが騎士団にもいられない。
剣しか持っていない。だがその剣が——信じられなくなっていた。
三日間、王都を歩いた。当てもなく。眠らず。食わず。
四日目の朝。橋の上に立っていた。川面を見ていた。何を考えていたか——覚えていない。何も考えていなかったのかもしれない。
「探したぞ」
声がした。
振り向くと——ヘルマンが立っていた。
白髪。深い皺。片目に古い傷。公爵家の老騎士。俺が公爵邸に引き取られた頃から、訓練の基礎を叩き込んでくれた男。
「公爵閣下の命令だ。戻れ」
「……戻れません」
「戻れ、と言っている」
「俺は——もう騎士ではありません」
ヘルマンが鼻を鳴らした。
「剣を持っているか」
「……持っています」
「折れているか」
「……いいえ」
「なら騎士だ」
ヘルマンが背を向けた。
「お前の剣は、まだ折れていない。使い道がある。来い」
歩き出した。振り返らなかった。
俺は——ヘルマンの背中を追った。他に行く場所がなかったからだ。それだけの理由だった。
◇
公爵邸に戻った。
公爵閣下に呼ばれた。書斎。広い部屋。窓から差す光。
十四年前と変わらない目だった。厳めしい顔。鋭い目。だが——怒ってはいなかった。
「座れ」
座った。
「近衛騎士団を辞めたそうだな」
「……はい」
「理由は聞かん。ヘルマンから聞いた」
沈黙。
公爵閣下が立ち上がった。窓の外を見た。
「任務がある」
「……任務」
「娘を守れ」
一瞬、意味が分からなかった。
「娘——ですか」
「セレスティア。三歳になった。護衛をつける」
三歳。
三歳の子供の護衛。
近衛騎士団で剣を振っていた男に、三歳の子供の——護衛。
侮辱だとは思わなかった。公爵閣下は、そういうことをする人ではない。
だが——意味が分からなかった。
「なぜ、俺に」
公爵閣下が振り返った。
「お前は守りたいのだろう」
言葉が出なかった。
「守れなかったから辞めた。違うか」
「……」
「ならば——守れ。今度は」
命令だった。公爵閣下の命令に逆らう理由は、俺にはない。
「……承知しました」
それだけ答えた。
◇
翌日。
ヘルマンに連れられて、屋敷の東棟に向かった。お嬢様の居室がある棟だ。
廊下を歩く。花の香りがする。壁に子供の描いた絵が貼ってある。太陽と花と——よく分からない生き物の絵。
扉の前で立ち止まった。
ヘルマンが扉を叩いた。
「お嬢様。新しい護衛をお連れしました」
扉が内側から開いた。侍女が一人。そして——小さな影が、侍女の後ろから覗いた。
銀色の髪。青みがかった翠の瞳。白い肌。三歳の女の子。
小さい。当然だ。三歳だ。だが——その目が。
三歳の子供の目ではなかった。
何かを知っている目。何かを見てきた目。路地裏の子供が持つような——いや、それとも違う。もっと深い。もっと遠い。
俺は膝をついた。目線を合わせるために。
ヘルマンが口を開こうとした。俺の名前を告げるために。
だがそれより先に——。
「ヴォルフさま」
お嬢様が言った。
背筋が凍った。
「よろしくおねがいします」
小さな声。はっきりとした発音。三歳児の舌足らずさはあった。だが——名前を。
俺の名前を。
誰も教えていない。ヘルマンはまだ口を開いていない。侍女が事前に伝えた可能性は——ヘルマンの表情を見れば分かる。彼も驚いている。
「お嬢様。こちらの名前をご存知で——」
ヘルマンが問いかけた。
「ゆめで、みました」
お嬢様はそう言って、微笑んだ。
夢。
夢で——俺の名前を見た。
三歳の子供の言うことだ。聞き流すべきだ。子供は夢と現実の区別がつかない。よくあることだ。
だがあの目は——嘘をついていなかった。
あの目は知っていた。俺の名前を。それだけではない。何かもっと多くのことを——あの目は知っていた。
問い詰めることはしなかった。
する必要がなかった。
俺の任務は守ることだ。名前を知っている理由を暴くことではない。
「——ヴォルフ・レーヴェンシュタインです。お嬢様の護衛を務めます」
頭を下げた。
お嬢様が小さな手を差し出した。
その手を取った。小さかった。折れそうなほど小さかった。
この手を——守る。
理由は要らない。公爵閣下の命令だ。それで十分だ。
だが——心の奥で、別の何かが動いた。
あの目だ。あの目が俺を見ていた。俺の名前を知っている目。三歳の子供が持つべきではない深さを持った目。
この子は——何を知っている。
問わない。問う必要はない。
俺の剣は、まだ折れていない。使い道がある。
ヘルマンの言葉が——ようやく意味を持った。




