路地裏の狼
最初の記憶は、腹が減っていたことだ。
それ以前の記憶はない。親の顔も知らない。名前も知らない。王都南区の路地裏が俺の全てだった。
石畳の隙間に溜まった雨水を飲んだ。市場のゴミ箱から腐りかけのパンを拾った。冬は橋の下で身を寄せ合い、夏は屋根の上で眠った。
仲間が二人いた。
トビアスとルッツ。本名かどうかも分からない。路地裏では名前に意味がない。呼べれば何でもいい。
トビアスは俺より一つ年上で、手先が器用だった。市場で食い物をかすめるのが上手かった。ルッツは俺より二つ年下で、泣き虫だった。だが足が速い。追いかけられたら誰よりも速く逃げた。
俺は何が得意だったか。
殴られても立ち上がること。それだけだ。
路地裏では喧嘩が日常だった。縄張り争い。食い物の奪い合い。年上の浮浪児に殴られる。蹴られる。地面に叩きつけられる。
俺は強くなかった。身体も小さかった。だが立ち上がった。何度でも。殴られるたびに立ち上がった。理由は単純だ。倒れたままだと、次に蹴られるのはトビアスかルッツだから。
俺が立っていれば、あいつらは殴られない。
それが俺の役目だった。言葉にしたことはない。だが三人の中で、暗黙のうちに決まっていた。
◇
八歳の冬だった。
三日間、何も食べていなかった。
市場が閉まっている。祭りの準備で警備が増えて、ゴミ箱にも近づけない。橋の下は凍りついている。ルッツの唇が紫になっていた。
「あれ」
トビアスが指差した。
大通りを馬車が通っている。立派な馬車だ。四頭立て。車体に紋章が刻まれている。鷲の紋章。
「貴族だ。金持ちだ」
トビアスの目が光った。
俺たちは石を拾った。三人で。
計画も何もない。馬車に石を投げて、御者が驚いて荷物を落としたら、それを拾って逃げる。それだけの計画だった。
石を投げた。
一つ目はトビアスの石。馬車の車体に当たった。乾いた音。
二つ目は俺の石。窓の近くに当たった。
三つ目を投げる前に、護衛の騎士が馬から飛び降りた。
速かった。
トビアスの襟首を掴み、ルッツの腕を掴み、俺の足を払った。三秒で三人とも地面に転がされた。
「何をしている。小僧ども」
騎士の声。低い。怒っている。
ルッツが泣き始めた。トビアスは黙って目を逸らした。俺は地面に押さえつけられたまま、騎士の顔を睨んでいた。
◇
馬車の扉が開いた。
男が降りてきた。
大きかった。背が高い。肩幅が広い。灰がかった銀髪。厳めしい顔。目が鋭い。
だが——怒ってはいなかった。
三人の子供を見下ろして、一言も発さずに観察していた。俺たちの服を。顔を。手を。
それから口を開いた。
「腹が減っているのか」
質問だった。命令ではない。
誰も答えなかった。トビアスは目を逸らしたまま。ルッツは泣いたまま。
俺は——睨んだまま、答えた。
「……減ってる」
男は頷いた。
「ならば食わせてやる」
護衛の騎士が驚いた顔をした。男は騎士を手で制した。
「だが盗みはするな。盗みは弱い者のすることだ」
俺を見た。まっすぐに。
「お前は弱いのか」
◇
嘘をついた。
「弱くない」
弱かった。三日間何も食べていない八歳の浮浪児が、強いわけがない。身体は痩せ細り、肋骨が浮いていた。殴られても立ち上がるだけが取り柄の、路地裏の餓鬼だ。
弱い。誰がどう見ても弱い。
だがあの男の前で「弱い」と言うことはできなかった。
あの目が許さなかった。あの目の前で弱さを認めたら、何かが終わる気がした。何かは分からない。だが終わる。
「弱くない」
もう一度言った。
男の口元が——微かに動いた。笑ったのかどうかは分からない。
「そうか」
それだけ言って、馬車に戻った。護衛に何かを耳打ちした。
護衛が俺たちの襟首を放した。
「ついてこい。飯を食わせてやる」
◇
公爵邸だった。
鷲の紋章の馬車。あの男が公爵だと知ったのは、邸に着いてからだった。
ライナルト・フォン・アルヴェイン。公爵。王国の柱石。
そんな人間に石を投げた。
殺されてもおかしくなかった。
だが殺されなかった。飯を食わされた。温かい飯を。パンとスープと肉。三日ぶりの食事に、ルッツは泣きながら食べた。トビアスは黙々と食べた。俺は——一口食べて、手が止まった。
美味かった。
美味いものを食べたのは、生まれて初めてだった。
それが——怖かった。
美味い飯を知ってしまったら、路地裏に戻れなくなる。戻りたくなくなる。
「全部食え」
公爵の声。いつの間にか食堂にいた。
「残すな。食い物を粗末にするのは弱い者のすることだ」
また「弱い」と言った。
俺は全部食べた。
◇
三人とも公爵家に引き取られた。
トビアスは料理人見習いになった。手先の器用さを買われた。ルッツは領地の農夫見習いになった。足の速さが馬の世話に向いていた。
俺は——何にもなれなかった。
読み書きができない。計算ができない。手先は不器用。礼儀作法は知らない。
厨房の隅で眠った。朝は水汲み。昼は薪割り。夜は掃除。
何の取り柄もない。ただ、殴られても立ち上がること以外に。
だが公爵邸では殴られなかった。
それが——戸惑った。
◇
七年が過ぎた。
十五歳になっていた。
身体は大きくなった。水汲みと薪割りで腕が太くなった。背も伸びた。だが中身は変わらない。読み書きは少しだけ覚えた。マルガレーテという侍女長が教えてくれた。だが得意ではなかった。
ある日。
訓練場の隅に立っていた。騎士たちの訓練を見ていた。
剣を振る音。金属がぶつかる音。足が地面を蹴る音。
身体が熱くなった。理由は分からない。だが——あの音を聞くと、身体の奥が震えた。
夜。訓練場に忍び込んだ。
木剣が壁に立てかけてあった。一本取った。
振った。
我流だ。誰にも教わっていない。ただ昼間見た騎士たちの動きを思い出して、真似をした。
振った。振った。振った。
汗が噴き出した。息が上がった。だが止められなかった。
「おい」
声がした。
振り返ると、少年が立っていた。十二歳くらい。銀髪。碧い目。騎士の体格。
「お前。名前は」
「……ヴォルフ」
「ヴォルフか。狼か。いい名だ」
少年が木剣を取った。
「筋がいいな。稽古相手になれ」
エドヴァルト・フォン・アルヴェイン。公爵の長男。
公爵閣下の息子に、路地裏の孤児が剣の稽古をつけてもらう。あり得ない光景だ。
だが——剣を握った瞬間、全てが消えた。
路地裏の記憶。飢えの記憶。殴られた記憶。何者でもない自分。
全部消えて——剣だけが残った。
これだ。
借りを返す方法が見つかった。
あの日、公爵閣下は俺に飯を食わせてくれた。路地裏から救い出してくれた。人間にしてくれた。
返せるものは何もない。金もない。学もない。才もない。
だが——剣がある。
この剣で、公爵閣下を守る。公爵家を守る。
それが、俺にできる唯一のことだ。
◇
エドヴァルトは容赦がなかった。
毎朝、訓練場に呼ばれた。打たれた。転がされた。立ち上がった。また打たれた。
「お前、殴られ慣れてるな」
「……まあ」
「いい度胸だ。だが度胸だけでは死ぬ。技を覚えろ」
技を覚えた。一つずつ。身体に刻み込むように。
言葉は要らなかった。
エドヴァルトが剣で示す。俺が剣で応える。
それだけで十分だった。
言葉より——剣の方が確かだ。
路地裏で学んだことは少ない。だが一つだけ、確かなことがある。
言葉は嘘をつく。飯をやると言って殴る大人がいた。助けてやると言って盗む大人がいた。
だが剣は嘘をつかない。強い剣は強い。弱い剣は弱い。それだけだ。
だから俺は黙ることを選んだ。
言葉の代わりに、剣で語る。
それが——俺の生き方になった。




