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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝②「扉の前の男」

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路地裏の狼

 最初の記憶は、腹が減っていたことだ。


 それ以前の記憶はない。親の顔も知らない。名前も知らない。王都南区の路地裏が俺の全てだった。


 石畳の隙間に溜まった雨水を飲んだ。市場のゴミ箱から腐りかけのパンを拾った。冬は橋の下で身を寄せ合い、夏は屋根の上で眠った。


 仲間が二人いた。


 トビアスとルッツ。本名かどうかも分からない。路地裏では名前に意味がない。呼べれば何でもいい。


 トビアスは俺より一つ年上で、手先が器用だった。市場で食い物をかすめるのが上手かった。ルッツは俺より二つ年下で、泣き虫だった。だが足が速い。追いかけられたら誰よりも速く逃げた。


 俺は何が得意だったか。


 殴られても立ち上がること。それだけだ。


 路地裏では喧嘩が日常だった。縄張り争い。食い物の奪い合い。年上の浮浪児に殴られる。蹴られる。地面に叩きつけられる。


 俺は強くなかった。身体も小さかった。だが立ち上がった。何度でも。殴られるたびに立ち上がった。理由は単純だ。倒れたままだと、次に蹴られるのはトビアスかルッツだから。


 俺が立っていれば、あいつらは殴られない。


 それが俺の役目だった。言葉にしたことはない。だが三人の中で、暗黙のうちに決まっていた。


 ◇


 八歳の冬だった。


 三日間、何も食べていなかった。


 市場が閉まっている。祭りの準備で警備が増えて、ゴミ箱にも近づけない。橋の下は凍りついている。ルッツの唇が紫になっていた。


 「あれ」


 トビアスが指差した。


 大通りを馬車が通っている。立派な馬車だ。四頭立て。車体に紋章が刻まれている。鷲の紋章。


 「貴族だ。金持ちだ」


 トビアスの目が光った。


 俺たちは石を拾った。三人で。


 計画も何もない。馬車に石を投げて、御者が驚いて荷物を落としたら、それを拾って逃げる。それだけの計画だった。


 石を投げた。


 一つ目はトビアスの石。馬車の車体に当たった。乾いた音。


 二つ目は俺の石。窓の近くに当たった。


 三つ目を投げる前に、護衛の騎士が馬から飛び降りた。


 速かった。


 トビアスの襟首を掴み、ルッツの腕を掴み、俺の足を払った。三秒で三人とも地面に転がされた。


 「何をしている。小僧ども」


 騎士の声。低い。怒っている。


 ルッツが泣き始めた。トビアスは黙って目を逸らした。俺は地面に押さえつけられたまま、騎士の顔を睨んでいた。


 ◇


 馬車の扉が開いた。


 男が降りてきた。


 大きかった。背が高い。肩幅が広い。灰がかった銀髪。厳めしい顔。目が鋭い。


 だが——怒ってはいなかった。


 三人の子供を見下ろして、一言も発さずに観察していた。俺たちの服を。顔を。手を。


 それから口を開いた。


 「腹が減っているのか」


 質問だった。命令ではない。


 誰も答えなかった。トビアスは目を逸らしたまま。ルッツは泣いたまま。


 俺は——睨んだまま、答えた。


 「……減ってる」


 男は頷いた。


 「ならば食わせてやる」


 護衛の騎士が驚いた顔をした。男は騎士を手で制した。


 「だが盗みはするな。盗みは弱い者のすることだ」


 俺を見た。まっすぐに。


 「お前は弱いのか」


 ◇


 嘘をついた。


 「弱くない」


 弱かった。三日間何も食べていない八歳の浮浪児が、強いわけがない。身体は痩せ細り、肋骨が浮いていた。殴られても立ち上がるだけが取り柄の、路地裏の餓鬼だ。


 弱い。誰がどう見ても弱い。


 だがあの男の前で「弱い」と言うことはできなかった。


 あの目が許さなかった。あの目の前で弱さを認めたら、何かが終わる気がした。何かは分からない。だが終わる。


 「弱くない」


 もう一度言った。


 男の口元が——微かに動いた。笑ったのかどうかは分からない。


 「そうか」


 それだけ言って、馬車に戻った。護衛に何かを耳打ちした。


 護衛が俺たちの襟首を放した。


 「ついてこい。飯を食わせてやる」


 ◇


 公爵邸だった。


 鷲の紋章の馬車。あの男が公爵だと知ったのは、邸に着いてからだった。


 ライナルト・フォン・アルヴェイン。公爵。王国の柱石。


 そんな人間に石を投げた。


 殺されてもおかしくなかった。


 だが殺されなかった。飯を食わされた。温かい飯を。パンとスープと肉。三日ぶりの食事に、ルッツは泣きながら食べた。トビアスは黙々と食べた。俺は——一口食べて、手が止まった。


 美味かった。


 美味いものを食べたのは、生まれて初めてだった。


 それが——怖かった。


 美味い飯を知ってしまったら、路地裏に戻れなくなる。戻りたくなくなる。


 「全部食え」


 公爵の声。いつの間にか食堂にいた。


 「残すな。食い物を粗末にするのは弱い者のすることだ」


 また「弱い」と言った。


 俺は全部食べた。


 ◇


 三人とも公爵家に引き取られた。


 トビアスは料理人見習いになった。手先の器用さを買われた。ルッツは領地の農夫見習いになった。足の速さが馬の世話に向いていた。


 俺は——何にもなれなかった。


 読み書きができない。計算ができない。手先は不器用。礼儀作法は知らない。


 厨房の隅で眠った。朝は水汲み。昼は薪割り。夜は掃除。


 何の取り柄もない。ただ、殴られても立ち上がること以外に。


 だが公爵邸では殴られなかった。


 それが——戸惑った。


 ◇


 七年が過ぎた。


 十五歳になっていた。


 身体は大きくなった。水汲みと薪割りで腕が太くなった。背も伸びた。だが中身は変わらない。読み書きは少しだけ覚えた。マルガレーテという侍女長が教えてくれた。だが得意ではなかった。


 ある日。


 訓練場の隅に立っていた。騎士たちの訓練を見ていた。


 剣を振る音。金属がぶつかる音。足が地面を蹴る音。


 身体が熱くなった。理由は分からない。だが——あの音を聞くと、身体の奥が震えた。


 夜。訓練場に忍び込んだ。


 木剣が壁に立てかけてあった。一本取った。


 振った。


 我流だ。誰にも教わっていない。ただ昼間見た騎士たちの動きを思い出して、真似をした。


 振った。振った。振った。


 汗が噴き出した。息が上がった。だが止められなかった。


 「おい」


 声がした。


 振り返ると、少年が立っていた。十二歳くらい。銀髪。碧い目。騎士の体格。


 「お前。名前は」


 「……ヴォルフ」


 「ヴォルフか。狼か。いい名だ」


 少年が木剣を取った。


 「筋がいいな。稽古相手になれ」


 エドヴァルト・フォン・アルヴェイン。公爵の長男。


 公爵閣下の息子に、路地裏の孤児が剣の稽古をつけてもらう。あり得ない光景だ。


 だが——剣を握った瞬間、全てが消えた。


 路地裏の記憶。飢えの記憶。殴られた記憶。何者でもない自分。


 全部消えて——剣だけが残った。


 これだ。


 借りを返す方法が見つかった。


 あの日、公爵閣下は俺に飯を食わせてくれた。路地裏から救い出してくれた。人間にしてくれた。


 返せるものは何もない。金もない。学もない。才もない。


 だが——剣がある。


 この剣で、公爵閣下を守る。公爵家を守る。


 それが、俺にできる唯一のことだ。


 ◇


 エドヴァルトは容赦がなかった。


 毎朝、訓練場に呼ばれた。打たれた。転がされた。立ち上がった。また打たれた。


 「お前、殴られ慣れてるな」


 「……まあ」


 「いい度胸だ。だが度胸だけでは死ぬ。技を覚えろ」


 技を覚えた。一つずつ。身体に刻み込むように。


 言葉は要らなかった。


 エドヴァルトが剣で示す。俺が剣で応える。


 それだけで十分だった。


 言葉より——剣の方が確かだ。


 路地裏で学んだことは少ない。だが一つだけ、確かなことがある。


 言葉は嘘をつく。飯をやると言って殴る大人がいた。助けてやると言って盗む大人がいた。


 だが剣は嘘をつかない。強い剣は強い。弱い剣は弱い。それだけだ。


 だから俺は黙ることを選んだ。


 言葉の代わりに、剣で語る。


 それが——俺の生き方になった。



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