五歳の戦略家
王都に来て、初めて気づいたことがある。
娘の目が、変わっていないということだ。
公爵領を離れて、慣れない場所に来た。知らない人間に囲まれている。普通の五歳の子供なら萎縮するか、泣くか、親の後ろに隠れるかするものだ。少なくとも、エドヴァルトはそうだった。フェリクスもそうだった。幼い頃は皆そうだった。
セレスティアは違った。
王都別邸の廊下を歩く時の目。窓から石畳の通りを見る時の目。私が宰相府の報告を夕食の席で話す時の目。
常に、何かを量っている目だ。
観察している。見知らぬ場所を。見知らぬ人間を。
そしてどこかで、計算している。
◇
王都に来たのは、ディートリヒの調査後、数ヶ月が経った頃だった。
表向きは定例の公爵府事務。実際は宰相府の動向を直接把握するためだ。宰相の動きが、この時期から変わり始めていた。細かな動きではあったが、三十年の経験がある。変化は感じ取れる。
リリアーナの状態も、少しずつ安定していた。毒が取り除かれてから、日に日に顔色が良くなっていた。王都への移動に耐えられると医師が言った。
セレスティアを連れてくることについて、私は少し考えた。
五歳だ。王都は公爵領とは空気が違う。社交の場もある。宰相派の目もある。連れてくることには理由もあったが、リスクもあった。
だがセレスティアは「いく」と言った。一言で言った。迷う様子がなかった。
結局、連れてきた。
◇
別邸に落ち着いた翌日から、娘は毎朝窓から外を見ていた。
王都の東の通り。荷馬車が行き交う石畳の道。市場の屋台。宰相府の建物が見える丘の上。
ある朝、「おとうさまのおしごとのひとたちは、どこにすんでるの」と聞いてきた。
「どの人間のことだ」
「ぎいんのひとたちとか、さいしょうふのひとたちとか」
私は少し考えてから地図を出して、主要な官邸の位置を教えた。娘は真剣な目で聞いた。場所を言うたびに、指を地図に当てて確認した。
五歳の子供の質問ではなかった。
◇
散歩に出たいと言ったのは、その二日後だった。
ヴォルフとナターシャを連れて。マルガレーテは妻の傍に残した。貴族の子供が護衛付きで王都を歩く。珍しいことではない。
私は書斎で書類に向かっていたので、同行しなかった。夕方に娘が帰ってきた。手に何かを持っていた。
書店で買ったという。
地図帳だった。王都の詳細な地図が収録された、大人向けの地図帳だった。
「なんでそれを買った」と聞くと、娘は「しらべたいことがある」と答えた。
何を調べるのかは聞かなかった。
◇
翌日の夜、ナターシャが書斎に来た。
義務で来たのではなかった、と後から分かった。心配だったから来た、と後から分かった。
「お嬢様が昨夜から地図帳に印をつけています」とナターシャは言った。「なんのためにと聞いたら、逃げる時に役立てるためと」
「逃げる時」
「はい。ナターシャも覚えておいてと言われました。どこになにがあるか。どの道に抜け道があるか」
ナターシャは「心配で、お知らせしに来ました」と言った。
◇
書斎でしばらく、書類の上にペンを置いたまま、私は動かなかった。
五歳が王都の地図に逃げ道の印をつけている。
何から逃げるつもりなのか。誰から逃げるつもりなのか。
三歳の朝食を思い出した。灌漑の話。「おみずないとおこめしんじゃう」という言葉。あの時の目と同じ目が、今日も地図の上にあるのだろうと思った。
ナターシャに「引き続き傍にいてくれ」とだけ言った。
ナターシャは頷いて出ていった。
私は手帳を開いた。書いた。
「五歳が王都の地図に逃げ道の印をつけている」
それだけ書いた。三日間、この一文を眺めた。
なぜ五歳の子供が逃げ道を考えているのか。なぜ「逃げる時」という前提が当然のように使える言葉を、この子は持っているのか。
答えは出なかった。だが私の中で何かが変わった。
この子を守らなければならない、という義務感が。この子が見えているものを理解しなければならない、という意志に。
◇
宰相の動きについて家族に報告したのは、王都に来て一月が過ぎた頃だった。
夕食の後、食堂に残った。エドヴァルト。フェリクス。リリアーナ。セレスティア。全員が揃っていた。
「宰相府がこちらの動きを探り始めている。直接的な圧力ではなく、情報収集の段階だ。おそらく次の手を考えている」
フェリクスが「どういう手が考えられますか」と聞いた。
私が答えようとした時だった。
「しゃこうかいでしかけてくるとおもう」
セレスティアが言った。
テーブルの端に座っていた五歳の娘が。
「宰相は社交会で仕掛けてくる、と?」
「うん。おとうさまのこうしゃくけのひょうばんをおとすほうが、べつのつうろからせめるよりかんたんだから。うわさとか、ちいさなしつれいとか。そういうものをつみかさねて、なかまをへらす」
私は少し考えた。
正しい。宰相の常套手段は評判の毀損だ。三十年見てきた。直接的な対立より、周囲を切り崩すことを好む。それが宰相のやり口だ。
だがそれを五歳が言った。
「対策は」とフェリクスが問うた。娘が「みかたをふやす」と答えた。「社交会で仕掛けてくるなら、社交会でみかたをふやす。そのためにはおかあさまとおとうさまが動ける状態にある方がいい」
「それは具体的には」
「おかあさまのともだちに会いに行く。おうひさまのことだよ。エレオノーラおうひさまは、おかあさまのともだちでしょ。おかあさまが直接あいにいければ、ただのあいさつだ。だれもなにもうたがわない」
食堂の空気が、少しの間、静まった。
いつの間にか、家族会議の中心がこの子になっていた。
◇
その夜、手帳を開いた。
「この子は私より先を見ている」と書いた。
次の言葉を探した。「恐ろしい」と書こうとした。正確ではなかった。恐ろしい、という感情ではなかった。もっと複雑な何かだった。
しばらく悩んで、こう書いた。
「この子は私より先を見ている。それは」
「それは」の後が書けなかった。
翌日の朝に続きを書いた。
「誇らしい」
二度目だった。
最初に書いた時より、迷いが少なかった。消そうとしなかった。消す必要がないと思ったのかもしれない。あるいは、消せないと最初から知っていたのかもしれない。
◇
王妃への拝謁を決めた。
エレオノーラ王妃。リリアーナの親友だという。何度も名前を聞いてきた人だ。だが私が直接接触を持つ機会は、これまでなかった。王妃は王宮の内側にいる人間だ。公爵が自ら動くのは、理由がなければ不自然だ。
だがリリアーナが直接訪ねるなら、ただの友人同士の再会だ。疑う者はいない。
セレスティアはそれを計算した上で「おかあさまのともだちに会いに行く」と言った。
私はその計算の正確さを確認した上で、王妃への書状を準備した。
娘も同行させることにした。
告げると、娘は頷いた。予想していたような顔だった。
「おとうさまありがとう」と言った。
礼を言われることに、私は慣れていない。「必要だから連れていく」と答えた。
それだけだ。
だがその夜、手帳に書かなかった。
書く必要がなかった。
胸の中に、言葉にしなくていいものがあった。
書いてしまったら小さくなる気がするものが、そこにあった。




