守れなかった男の娘
手帳の中に、一行しか書かれていない日がある。
感情が大きすぎると、言葉にならない。
公爵というのは言葉を持つ生き物だ。交渉の言葉。命令の言葉。布告の言葉。勅書への返答。同盟者への書簡。臣下への叱責。三十年間、言葉で政治をしてきた。言葉は私の道具だ。整然と、精密に機能する道具だ。それが公爵府の帳面と同じく、滞りなく機能することが、この家の条件だった。
だが人生のどこかで、道具が手元から消える日がある。
この話は、そういう日の記録だ。
◇
視察団が来た日のことを書く。
宰相府からの定期視察だ。表向きは行政監査。実態は情報収集。三十年の経験でそれは分かっている。宰相の眼と耳が各地の公爵府に入り込む口実として、この行事は機能している。微笑みながら受け入れ、微笑みながら適切な情報だけを渡す。それが公爵府と宰相府の距離の保ち方だった。
その日の朝、セレスティアを自室に置いておくよう指示した。三歳の子供を視察団の前に出す必要はない。三歳は感情が顔に出る。言うべきでないことを言う。何より、宰相の手の者にこの子を近くで観察させたくなかった。
マルガレーテに「今日は部屋で過ごしなさいと伝えてくれ」と言った。セレスティアは承知したと報告が来た。
視察団を応接室に通し、茶を出し、書類を準備した。来訪者は四名。主任視察官と書記三名。よく知った顔ではなかったが、型通りの動きをする人間たちだ。処理すべき書類を処理し、答えるべき質問に答えた。
午前の確認が一通り終わり、食堂に案内しようとした時だった。
廊下の方角から音がした。
かすかな音だった。何かが壁に触れたような音。視察団の男たちは気づいていなかった。
「少々お待ちください」と告げて、廊下に向かった。
◇
角を曲がったところで、止まった。
娘が床にいた。
正確には、崩れ落ちていた。壁に寄りかかるようにして、床に座り込んでいた。両膝を抱え、首を両手で押さえていた。その手が震えていた。全身が細かく震えていた。
マルガレーテが隣でしゃがんでいた。「お嬢様、お嬢様」と小さな声で繰り返していた。声が揺れていた。
少し離れたところに、視察団の男が一人立っていた。廊下に出てきていたらしい。書類を手に持ったまま、そこに立っていた。
私はまず男を見た。それから娘を見た。
三歳の身体が壁に寄りかかって震えていた。碧い目が虚空を見ていた。焦点が合っていなかった。私が近づいても、視線が動かなかった。
私は動いた。
男に「食堂へどうぞ」と告げた。男が動かなかったので、もう一度、低い声で「食堂へ」と言った。男は動いた。
マルガレーテに娘を頼み、通りかかった使用人に医師を呼ぶよう指示した。それから娘を抱き上げた。
軽かった。
三歳はこんなに軽い。腕の中でまだ震えている身体が、それでも驚くほど軽かった。廊下を歩きながら、私はこの軽さのことを考えた。思いのほか、ずっと軽いと思った。
◇
寝室のベッドに寝かせた後、廊下に出た。扉の前で少しの間、動かなかった。
医師を呼んだ。視察団の食事対応を家令に任せた。例の男の名前を記憶した。所属。顔の特徴。年齢の推測。帰りに乗る馬車の向き。全て処理した。公爵の仕事は処理することだ。
だが処理している間、手が震えていた。
微かに。誰も気づかなかったと思う。だが確かに震えていた。
この手が震えたのは、二十年前が最後だった。戦場だった。初めて自分の命令で部下が死んだ時だった。あれ以来、どんな場でもこの手は震えなかった。政治的危機の夜も。証拠を突きつけられた時も。リリアーナの容態が急変したと報告を受けた時も。
それが今日、震えた。
娘は生きている。危険にさらされたわけではない。視察団の男が廊下に出てきた。娘がそれを見た。何かの拍子に倒れた。医師の言う「精神的なもの」だろう。それだけの話のはずだ。
なのに、手が震えた。
◇
意識が戻った後、娘の傍に座った。
私が病床の家族の傍に座ることは、ほとんどない。何を言えばよいか分からないからだ。言葉を持つ人間が、言葉の持ち方を知らない場面がある。
だが今日は座った。
「何があった。何を見た」
娘は少しの間、黙っていた。視線が宙を漂っていた。やがて答えた。
「あのひとのかお」
「視察団の男か」
「かおが、こわかった。くびをきるひとのかおに、にてた」
首を切る人。処刑執行人。
三歳の子供がその概念を知っているはずがない。この家で処刑の話をする者はいない。マルガレーテはそういう話をする人間ではない。エドヴァルトもフェリクスも違う。リリアーナはなおさらだ。
「首を切る人間の顔を、お前は知っているのか」
娘はまた少しの間、黙った。
「ゆめで、みた」
それ以上は言わなかった。目を閉じた。
私は何も言えなかった。
何を言えばよかったのか、今でも分からない。
◇
その日の手帳には、一文だけ書いた。
「首を切る人間の顔を、お前は知っているのか」
それだけだ。
続きを書こうとした。この質問の後に娘が「夢で見た」と言ったこと。その言葉が嘘か本当か判断できなかったこと。嘘をついている目ではなかったこと。だが夢にしては、あまりにも確かな恐怖があの身体に出ていたこと。
書けなかった。
書いてしまったら、問い続けることになる。三歳の子供が処刑執行人の顔を夢で見る理由を。その夢がどこから来ているのかを。
答えが出ない問いを記録する習慣が、私にはなかった。
◇
翌日、例の男の身元を徹底的に調べた。所属。経歴。家族構成。過去の勤務地。問題行動の記録。宰相府との特別な繋がり。
何も出なかった。普通の官吏だった。
それでも家令に命じた。「あの男は二度とこの屋敷に入れるな」と。
理由は書類に記さなかった。書ける理由ではなかった。娘があの顔を見て震えた。それだけが理由だった。
◇
一週間が経った。
庭に出たリリアーナが、チューリップの花壇を見て「知らなかったわ、こんなに咲いていたのね」と言った。
私は「毎年咲いている」と答えた。
リリアーナは「でも今まで気づかなかった」と言って、花を見つめていた。
毒だ、と思った。三年間、毒が妻の目から色を奪っていた。チューリップが咲いていることに気づけないほど、この人の身体は蝕まれていたのだ。
調査は進んでいた。フェリクスが書庫で灰銀草のページを開いていたことから始まった調査だ。担当医への確認。薬の成分の分析。入手経路の追跡。命令の出所の特定。
全てがつながった。
リリアーナの薬に、長期にわたって微量の毒が混入されていた。
◇
家宰ディートリヒを幽閉した夜、書斎で一人でいた。
手帳を開いた。ペンを持った。白いページを、しばらく見ていた。
書いた。
「三歳の時から、この子は気づいていたのかもしれない」
止まった。
続きを書こうとした。「私は何年も気づかなかった」と。書けなかった。
書いてしまったら認めることになる。父として。この家の主として。妻の夫として。三歳の娘が気づいていたことに、私は気づかなかったという事実を。
この子が三歳の時に植えた一言が、フェリクスを動かした。フェリクスの行動が調査を始めた。調査が真実にたどり着いた。全ての最初は「おくすりにがいんだって」という、幼い子供の言葉だった。
幼い子供の言葉が、この家を救った。
その父は、その間、何をしていたのか。
◇
翌朝、セレスティアの部屋の前を通った。
中から声が聞こえた。マルガレーテと話している声だった。昨日の恐怖の跡は、声には残っていなかった。明るい声だった。
私は扉の前で立ち止まった。
入ろうとした。手が扉に触れた。
入れなかった。
何を言えばよいか分からなかった。「よくやった」と言うべきか。三歳の子供がやり遂げたことを称えるとはどういうことか。称えれば、その「何か」の正体を問わなければならなくなる。三歳の子供が処刑人の顔を知っている理由を。三歳から何かに気づいていた理由を。
「大丈夫だったか」と言うべきか。
あのパニック発作の後、今更何を聞くのか。
言葉が出なかった。公爵の言葉が、扉一枚を前にして消えた。
私はその日、扉の前を通り過ぎた。廊下の向こうに向かった。
◇
その夜。
書斎で一人、手帳を開いた。
最初に書いた「誇らしい」という言葉のページを、しばらく見た。滲んで、消えなかった一行。
それから新しいページを開いた。
書いた。
「私は、何をしている」
それ以上は書かなかった。
インクが乾くのを、ずっと見ていた。
答えは出なかった。
答えは、長い間、出なかった。




