三歳の娘が言った
机の引き出しの奥に、黒革の手帳がある。
誰にも見せたことがない。見せるつもりもない。
公爵ライナルト・フォン・アルヴェインが書き留めるのは、政務の記録でも財政の数字でもない。あれは別の帳面に整然と記録されている。この手帳に書くのは——書類にできない言葉だ。言葉にすることで、辛うじて自分の輪郭を保てる何かだ。
三十年分。
ほとんどは事務的な走り書きだ。だがところどころに、消そうとして消せなかった行がある。インクが乾く前に指で拭おうとして、滲んだだけで消えなかった行が。
この話は、そういう行の記録だ。
◇
三歳の娘が朝食で話しかけてきた日から始まる。
正確な日付は覚えている。三月の初めで、珍しく晴れていた。窓から東の山が見えた。雪が少し残っていた。公爵邸の朝は静かだ。長い樫材のテーブル。銀の燭台。磨かれた床に差し込む朝日。使用人たちの足音は廊下の向こうに消えていて、食堂には私とセレスティアだけがいた。マルガレーテが隣に控えていた。
いつも通りの朝食のはずだった。
公爵家の朝食とはそういうものだ。美しく、静かで、感情が動かない。パンを千切り、バターを塗り、紅茶を飲む。一連の動作に無駄がない。それで十分だ。
この子は前から不思議だった。三歳の子供は父親の顔を見て笑うか泣くかするものだ。少なくとも、私が知っている限りはそうだった。エドヴァルトもフェリクスも、幼い頃はそうだった。
だがセレスティアは違った。
じっと見ていた。ずっと前から。食事中も、廊下で会った時も、書斎の前を通り過ぎる時も。観察するような目で、私を見ていた。
その目が何を見ているのか、私には分からなかった。
◇
「おとうさま」
静かな食堂に、小さな声が響いた。
マルガレーテが驚いた顔をした。私も——驚いた。表情には出さなかったが。
この子が自分から話しかけてくることは、今まで一度もなかった。
「おとうさまのおしごとのおはなし、きかせて」
三歳が父の仕事に興味を持つ。
何かが引っかかった。だが問い返す前に、あの目と目が合った。碧い目。自分と同じ色の目。逸らさない目。
何かを量っている目だった。私が答えるかどうかを見ている目だ。
「仕事の話は子供には難しいぞ」
「むずかしくてもいい。きく」
断る理由がなかった。私は今日の報告事項を話した。東区画の灌漑水路が一本壊れた。修繕に人手がいる。資材の手配が必要だ。
三歳児に向ける内容ではない。だが娘は真剣な目で頷いた。
「おみずないと……おこめ、しんじゃう?」
◇
私は——少し止まった。
灌漑と作物の関係。それを口にした。三歳の子供が。
精一杯頭を回した。どこかで聞いたのかもしれない。偶然の一致かもしれない。子供が大人の言葉を聞き覚えていて、関係のない文脈で使うことはある。
「マルガレーテがね、おはなしでいってた。おみずだいじって」
マルガレーテが「え? あ、はい、そうですね」と慌てて合わせた。
私はマルガレーテを見た。マルガレーテは小さく首を振った。そんな話はしていない、という意味だろう。
その後、朝食を再開した。
だがその後ほんの一瞬だけ、私の視線がセレスティアに戻った。
あの目は——嘘をついている目ではなかった。
◇
その日の夜、手帳に書いた。
「マルガレーテに確認した。灌漑の話はしていないと言った。ではなぜ、この子はそれを知っている」
書いてから、ペンを置いた。
続きを書こうとした。「この子は何かを知っている」と。書けなかった。
三歳の子供が「知っている」とはどういうことか。誰かに教わったのでなければ——どこで知ったのか。前世? そんな言葉が頭に浮かんで、馬鹿馬鹿しいと思って打ち消した。
結局その夜は、最初の一文だけが残った。
◇
数週間後のことだ。
書庫を通りかかった時、フェリクスが本を読んでいた。珍しいことではない。この息子はいつも書庫にいる。
だが——開いているページが気になった。
薬草と毒草の分類書。灰銀草の項目。
私はフェリクスに声をかけなかった。何も聞かなかった。
夜、リリアーナの担当医を書斎に呼んだ。
「現在の処方について、灰銀草の成分を確認したい」
医師の顔色が変わった。
その一瞬で、答えは出た。
◇
調査に時間がかかった。
証拠を集めた。確認した。裏を取った。
結論は——出た。
リリアーナの薬に、長期間にわたって微量の毒が混入されていた。
その夜、手帳を開いた。ペンを持った。
「セレスティアが言ったのは——このことだったのか」
書いた後、しばらく動けなかった。
三歳の子供が気づいていたことに、私は何年も気づかなかった。この家の主が。妻の夫が。
フェリクスが灰銀草のページを開いたのは偶然ではなかった。セレスティアが種を蒔いた。「おくすり、にがいんだって」という一言で。
あの子は——知っていた。
誰が毒を盛っているかまでは知らなかったかもしれない。だが「何かおかしい」ということを、三歳で気づいていた。
そして気づいた上で、動いた。
◇
春が来て、リリアーナの顔色が日に日に良くなった。
庭に出られる日が増えた。花を見て笑うようになった。夕食の席でエドヴァルトの冗談に声を上げて笑うようになった。
ある朝、窓から妻と娘が並んで庭を歩いているのを見た。
リリアーナが娘の手を握っていた。娘がリリアーナの手を握り返していた。
金髪と銀髪が、春の光の中で並んでいた。
リリアーナが笑っていた。本当の笑顔だった。毒に蝕まれた三年間に失われていた笑顔が、戻ってきていた。
私はしばらく、その光景を見ていた。
◇
書斎に戻り、手帳を開いた。
長い書き出しの後——最後に一行だけ付け足した。
「誇らしい」
書いた後で、消そうとした。公爵の手帳に書く言葉ではない。感傷だ。記録の価値がない。
指を濡らして、インクを拭こうとした。
滲んだ。消えなかった。
——本当は、まだ乾ききっていないうちに消そうとしなかったのだ。
そのことは、翌朝気づいた。
気づいたが——もう消えなかったので、そのままにした。




