表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
外伝①「公爵の手帳」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

309/329

三歳の娘が言った

 机の引き出しの奥に、黒革の手帳がある。


 誰にも見せたことがない。見せるつもりもない。


 公爵ライナルト・フォン・アルヴェインが書き留めるのは、政務の記録でも財政の数字でもない。あれは別の帳面に整然と記録されている。この手帳に書くのは——書類にできない言葉だ。言葉にすることで、辛うじて自分の輪郭を保てる何かだ。


 三十年分。


 ほとんどは事務的な走り書きだ。だがところどころに、消そうとして消せなかった行がある。インクが乾く前に指で拭おうとして、滲んだだけで消えなかった行が。


 この話は、そういう行の記録だ。


 ◇


 三歳の娘が朝食で話しかけてきた日から始まる。


 正確な日付は覚えている。三月の初めで、珍しく晴れていた。窓から東の山が見えた。雪が少し残っていた。公爵邸の朝は静かだ。長い樫材のテーブル。銀の燭台。磨かれた床に差し込む朝日。使用人たちの足音は廊下の向こうに消えていて、食堂には私とセレスティアだけがいた。マルガレーテが隣に控えていた。


 いつも通りの朝食のはずだった。


 公爵家の朝食とはそういうものだ。美しく、静かで、感情が動かない。パンを千切り、バターを塗り、紅茶を飲む。一連の動作に無駄がない。それで十分だ。


 この子は前から不思議だった。三歳の子供は父親の顔を見て笑うか泣くかするものだ。少なくとも、私が知っている限りはそうだった。エドヴァルトもフェリクスも、幼い頃はそうだった。


 だがセレスティアは違った。


 じっと見ていた。ずっと前から。食事中も、廊下で会った時も、書斎の前を通り過ぎる時も。観察するような目で、私を見ていた。


 その目が何を見ているのか、私には分からなかった。


 ◇


 「おとうさま」


 静かな食堂に、小さな声が響いた。


 マルガレーテが驚いた顔をした。私も——驚いた。表情には出さなかったが。


 この子が自分から話しかけてくることは、今まで一度もなかった。


 「おとうさまのおしごとのおはなし、きかせて」


 三歳が父の仕事に興味を持つ。


 何かが引っかかった。だが問い返す前に、あの目と目が合った。碧い目。自分と同じ色の目。逸らさない目。


 何かを量っている目だった。私が答えるかどうかを見ている目だ。


 「仕事の話は子供には難しいぞ」


 「むずかしくてもいい。きく」


 断る理由がなかった。私は今日の報告事項を話した。東区画の灌漑水路が一本壊れた。修繕に人手がいる。資材の手配が必要だ。


 三歳児に向ける内容ではない。だが娘は真剣な目で頷いた。


 「おみずないと……おこめ、しんじゃう?」


 ◇


 私は——少し止まった。


 灌漑と作物の関係。それを口にした。三歳の子供が。


 精一杯頭を回した。どこかで聞いたのかもしれない。偶然の一致かもしれない。子供が大人の言葉を聞き覚えていて、関係のない文脈で使うことはある。


 「マルガレーテがね、おはなしでいってた。おみずだいじって」


 マルガレーテが「え? あ、はい、そうですね」と慌てて合わせた。


 私はマルガレーテを見た。マルガレーテは小さく首を振った。そんな話はしていない、という意味だろう。


 その後、朝食を再開した。


 だがその後ほんの一瞬だけ、私の視線がセレスティアに戻った。


 あの目は——嘘をついている目ではなかった。


 ◇


 その日の夜、手帳に書いた。


 「マルガレーテに確認した。灌漑の話はしていないと言った。ではなぜ、この子はそれを知っている」


 書いてから、ペンを置いた。


 続きを書こうとした。「この子は何かを知っている」と。書けなかった。


 三歳の子供が「知っている」とはどういうことか。誰かに教わったのでなければ——どこで知ったのか。前世? そんな言葉が頭に浮かんで、馬鹿馬鹿しいと思って打ち消した。


 結局その夜は、最初の一文だけが残った。


 ◇


 数週間後のことだ。


 書庫を通りかかった時、フェリクスが本を読んでいた。珍しいことではない。この息子はいつも書庫にいる。


 だが——開いているページが気になった。


 薬草と毒草の分類書。灰銀草の項目。


 私はフェリクスに声をかけなかった。何も聞かなかった。


 夜、リリアーナの担当医を書斎に呼んだ。


 「現在の処方について、灰銀草の成分を確認したい」


 医師の顔色が変わった。


 その一瞬で、答えは出た。


 ◇


 調査に時間がかかった。


 証拠を集めた。確認した。裏を取った。


 結論は——出た。


 リリアーナの薬に、長期間にわたって微量の毒が混入されていた。


 その夜、手帳を開いた。ペンを持った。


 「セレスティアが言ったのは——このことだったのか」


 書いた後、しばらく動けなかった。


 三歳の子供が気づいていたことに、私は何年も気づかなかった。この家の主が。妻の夫が。


 フェリクスが灰銀草のページを開いたのは偶然ではなかった。セレスティアが種を蒔いた。「おくすり、にがいんだって」という一言で。


 あの子は——知っていた。


 誰が毒を盛っているかまでは知らなかったかもしれない。だが「何かおかしい」ということを、三歳で気づいていた。


 そして気づいた上で、動いた。


 ◇


 春が来て、リリアーナの顔色が日に日に良くなった。


 庭に出られる日が増えた。花を見て笑うようになった。夕食の席でエドヴァルトの冗談に声を上げて笑うようになった。


 ある朝、窓から妻と娘が並んで庭を歩いているのを見た。


 リリアーナが娘の手を握っていた。娘がリリアーナの手を握り返していた。


 金髪と銀髪が、春の光の中で並んでいた。


 リリアーナが笑っていた。本当の笑顔だった。毒に蝕まれた三年間に失われていた笑顔が、戻ってきていた。


 私はしばらく、その光景を見ていた。


 ◇


 書斎に戻り、手帳を開いた。


 長い書き出しの後——最後に一行だけ付け足した。


 「誇らしい」


 書いた後で、消そうとした。公爵の手帳に書く言葉ではない。感傷だ。記録の価値がない。


 指を濡らして、インクを拭こうとした。


 滲んだ。消えなかった。


 ——本当は、まだ乾ききっていないうちに消そうとしなかったのだ。


 そのことは、翌朝気づいた。


 気づいたが——もう消えなかったので、そのままにした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ