三百年後
王宮書庫の最奥に、封印された部屋がある。
扉に「閲覧制限」の古い封蝋がある。蝋が茶色く崩れかけている。何十年も誰も入っていない証拠だ。
フェリクスがその部屋に入ったのは、宰相の裁判の準備を始めてから三週間が過ぎた頃だった。
◇
聖女エステルについての歴史的資料を探していた。
宰相が「聖魔力脅威論」の根拠にしているのは三百年前のエステルの「反乱」だ。その「反乱」が外部からの誘発によるものだったと証明できれば、宰相の論拠は崩れる。
図書室の通常の棚にある資料はすでに全て調べた。処刑の記録。裁判の記録。目撃者の証言記録。
どれも、同じことしか書かれていない。
「意図的な暴走。反乱。処刑」
それ以上のことが書かれていない。
もっと詳しい一次資料がどこかにあるはずだ。裁判記録のさらに元になった資料が。フェリクスは目録を調べ、「閲覧制限区画」の存在を知った。
◇
扉は錆びていた。
鍵を三本試して、四本目で開いた。
中は埃っぽかった。空気が三百年分の重さを持っていた。窓はない。フェリクスはランプを持って入った。
棚が並んでいた。木の棚。上から下まで書類と木箱が収められていた。
全体量を見て、フェリクスは一度だけため息をついた。
始めるしかない。
棚を一つずつ確認した。年代順に整理されているわけではない。管理した人間の基準で並んでいる。その基準がフェリクスには分からない。
一時間。
二時間。
背が痛くなった。ランプの油が半分になった。
三時間目に入ったところで、一番奥の棚の最下段に、他と違う木箱を見つけた。
小さい。手のひら大。蓋に書き文字がある。「個人遺物。神殿書庫より移管」
開けた。
中に、折りたたまれた紙が一枚入っていた。
薄い。三百年で茶色くなっている。端が少し欠けている。
フェリクスは手袋をしていた。慎重に広げた。
◇
文字が読めた。
インクが滲んでいた。書いた人の手が震えていたのだろう。文字が小さい。でも丁寧だった。一字一字、丁寧に書かれていた。
フェリクスは読んだ。
最初の段落。ヘスペル村のこと。父の言葉。王命に従ったこと。
次の段落。王都での日々。ヘレナとのこと。礼拝堂での仕事。毎日来た人たちの顔。
それから。
「あの夜、わたしの力は止められなかった。止めようとした。叫んだ。でも止まらなかった。外から何かが来ていた感覚があった。壁から。石から。何かが共鳴していた」
フェリクスの手が、一度、静止した。
共鳴。
続きを読んだ。
「証明できない。礼拝堂の壁を調べれば何か分かるかもしれないが、もう壊れている。調べる理由も、調べてくれる人も、いない。裁判で言った。信じてもらえなかった。当然かもしれない。証拠がない」
「ただ、本当のことだけを書いておきたい。誰かがいつか読んでくれるかもしれない。読んでもらえなくてもいい。ただ、残したい」
◇
最後の段落だった。
フェリクスは少し間を置いてから、読んだ。
「もしいつか、三百年後に、わたしと同じ力を持つ誰かが生まれたなら——
どうか、一人にしないでください。
わたしは一人だった。止めようとしたが、止められなかった。叫んだが、届かなかった。
それが一番、怖かった。
一人では、どうにもならないことがある。
次の人が、一人でありませんように。
誰かと一緒に、いられますように。
エステル」
◇
フェリクスは長い間、動かなかった。
ランプの光の中で、紙を持ったまま、棚の前に立っていた。
眼鏡が曇っていた。
拭いた。また曇った。
もう一度拭いた。
それから紙を、できる限り丁寧に折りたたんだ。懐に入れた。
フェリクスは書庫の扉を閉めて、廊下に出た。
公爵邸の方向に向かって、歩き始めた。
妹に会いに行く。
今すぐ。
◇
公爵邸の書斎の扉を開けた。
セレスティアが机に向かっていた。書類。地図。山積みになっている資料。裁判の準備を毎日している。
振り返った。
「フェリクス兄さん。どうしたの、珍しい」
フェリクスは何も言わずに、傍の椅子に座った。
セレスティアが少し首を傾けた。兄の様子がいつもと違う、と感じているはずだ。
フェリクスは口を開いた。
「三百年前のエステルは、一人だった」
「……うん」
「お前は」
セレスティアが少し間を置いた。
「一人じゃない」
フェリクスは頷いた。
「それだけ確認したかった」
それだけ言って、眼鏡を外して拭いた。
セレスティアが何かに気づいたように、少し目を細めた。
しばらく、窓の外を見ていた。
石段のことを思っていた。
ある日、一人の少女があそこに来た。パンを持って。隣に座っていいか、と聞いた。歪んだハート型の、焼きたてのパンを持って。
あの時、「いいよ」と答えたのはなぜだったか。
理由を、うまく言葉にしたことがない。ただ——いいよ、と思った。それだけだった。
今なら分かる気がした。
エステルが最後に書いた言葉がある。「次の人が、一人でありませんように」。
フリーデリケは何も知らない。エステルという名前も、三百年前の春も、この手紙のことも。
ただ石段に来て、パンを焼いて、傍に座っただけだ。
代わりに立ち上がって、ナターシャを呼んだ。
「紅茶を三人分。フェリクス兄さんの分も」
「かしこまりました」
ナターシャが出て行った。
書斎に、兄と妹の二人が残った。
◇
窓から春の光が入っていた。
フェリクスは懐の紙に触れた。三百年前の願いが、今ここにある。
エステルが一人だったことは、変えられない。
でも——次の人は、一人ではなかった。
それだけは、確かだ。
それで——十分だと、フェリクスは思った。
窓の外、春の空が広がっていた。
三百年前と同じ、青い空だった。
あの朝、エステルが見上げた空と、同じ色だった。
——了——




