春の朝
衛兵が迎えに来た時、カイはまだいた。
「面会時間は終わりだ」
「はい」
カイが立ち上がった。紙をしっかり懐に入れた。
「エステル様」
最後に言おうとして、言葉が来なかった。
「大丈夫です」とエステルが言った。「行って。紙を持って、行ってください」
カイが頷いた。
扉の外に出た。廊下に消えた。
衛兵が「立て」と言った。
エステルは立った。
◇
廊下を歩いた。
石畳。長い廊下。昨日と同じ道を逆に歩いている。裁判の部屋を通り過ぎた。謁見の間の前を通り過ぎた。
王宮に来た最初の日、廊下を歩きながら「歩き方を考えすぎた」と思ったのを思い出した。ヘレナが「慣れるわ。三ヶ月もいれば自然になる」と言った。
三ヶ月。
ちょうど、三ヶ月だった。
外に出た。
春の朝の空気が顔に当たった。
冷たかった。清潔な冷たさだった。
前の夜から、外の空気を吸っていなかった。肺が広がる感じがした。
広場への道を歩いた。
◇
両側に衛兵がいた。道の両側に人が集まっていた。
エステルは目を上げなかった。
足元だけ見て歩いた。
石畳。石畳。どこまでも石畳。村の土の道とは違う。雨が降っても泥にならない。冬でも凍りにくい。人間は便利なものを作る。
泣いている声が聞こえた。遠くから。礼拝堂に通っていた人たちだろう。声の方を見たかったが、顔を上げると目が合うかもしれない。泣かせてしまいたくなかった。自分が死ぬことで、人が悲しんでいる。その事実が、いちばん胸に重かった。
広場に出た。
◇
広場は広かった。
見たことのない広さだった。王都に来た日に通ったかもしれないが、覚えていない。
中央に台が組まれていた。木の台。高さは大人の腰ほど。
周囲に人が集まっていた。
エステルは台に上がった。
衛兵が左右に立った。
広場を見渡した。
たくさんの人がいた。半分は怖い顔をしていた。半分は何かを待つ目をしていた。前の方に、泣いている人が何人かいた。礼拝堂で見た顔だった。
骨折を治した靴職人。目の霞みが取れた書記官。産後に助けた母親が、赤ん坊を抱いて立っていた。
エステルは一人一人の顔を見た。
覚えている。全員の顔を覚えている。
前の方で目が合った。泣いている人と。靴職人だった。
エステルは微笑んだ。
なぜ微笑めたかは分からない。でも笑えた。自然に。
靴職人が、声を上げて泣いた。
◇
空を見上げた。
春の朝の空だった。
青かった。
一点の雲もなかった。残酷なほど、晴れていた。
ヘスペル村から見た空と、同じ空だ。
村の川の傍で、空を見上げた時と同じ色だ。どこにいても、空は一つだ。
エステルは思った。カイが紙を持っている。紙の中に、本当のことが書いてある。どこかの書庫の奥に隠される。百年後には誰も知らないかもしれない。でも、消えない。紙は、消えない。
それで十分だ、と思えた。
不思議だった。こんな朝に、十分だと思えた。
◇
目を閉じたくなかった。
空を見たままでいたかった。
最後まで、見ていたかった。
春の青い空が、視界いっぱいに広がっていた。
最後に考えたのは、マルクスのことだった。
七歳の男の子。熱で死にかけていた。手を当てたら治った。翌朝、林檎を食べた。
「おなか、すいた」と言った声。あの普通の声が、全ての始まりだった。
あれが最初だった。
あれがよかった。あれが好きだった。
あの瞬間のために、全部あったのかもしれない。
良かった、とエステルは思った。
マルクスを助けられて、良かった。
それで——十分だった。
◇
広場の向こうで、誰かが叫んでいた。
「エステル!」
ヘレナの声だった。
衛兵に止められながら、叫んでいた。「この子は何もしていない! 聞いてください、この子は——」
エステルはその声を聞いた。
最後まで聞いた。
ありがとう、とエステルは思った。
来てくれてよかった。
一人じゃなかった。
一人じゃなかった、と最後に思えることが——何よりも、良かった。
春の朝の空が、広がっていた。
青かった。
ただ、青かった。




