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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
エステル——三百年前の春

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春の朝

 衛兵が迎えに来た時、カイはまだいた。


「面会時間は終わりだ」


「はい」


 カイが立ち上がった。紙をしっかり懐に入れた。


「エステル様」


 最後に言おうとして、言葉が来なかった。


「大丈夫です」とエステルが言った。「行って。紙を持って、行ってください」


 カイが頷いた。


 扉の外に出た。廊下に消えた。


 衛兵が「立て」と言った。


 エステルは立った。



 廊下を歩いた。


 石畳。長い廊下。昨日と同じ道を逆に歩いている。裁判の部屋を通り過ぎた。謁見の間の前を通り過ぎた。


 王宮に来た最初の日、廊下を歩きながら「歩き方を考えすぎた」と思ったのを思い出した。ヘレナが「慣れるわ。三ヶ月もいれば自然になる」と言った。


 三ヶ月。


 ちょうど、三ヶ月だった。


 外に出た。


 春の朝の空気が顔に当たった。


 冷たかった。清潔な冷たさだった。


 前の夜から、外の空気を吸っていなかった。肺が広がる感じがした。


 広場への道を歩いた。



 両側に衛兵がいた。道の両側に人が集まっていた。


 エステルは目を上げなかった。


 足元だけ見て歩いた。


 石畳。石畳。どこまでも石畳。村の土の道とは違う。雨が降っても泥にならない。冬でも凍りにくい。人間は便利なものを作る。


 泣いている声が聞こえた。遠くから。礼拝堂に通っていた人たちだろう。声の方を見たかったが、顔を上げると目が合うかもしれない。泣かせてしまいたくなかった。自分が死ぬことで、人が悲しんでいる。その事実が、いちばん胸に重かった。


 広場に出た。



 広場は広かった。


 見たことのない広さだった。王都に来た日に通ったかもしれないが、覚えていない。


 中央に台が組まれていた。木の台。高さは大人の腰ほど。


 周囲に人が集まっていた。


 エステルは台に上がった。


 衛兵が左右に立った。


 広場を見渡した。


 たくさんの人がいた。半分は怖い顔をしていた。半分は何かを待つ目をしていた。前の方に、泣いている人が何人かいた。礼拝堂で見た顔だった。


 骨折を治した靴職人。目の霞みが取れた書記官。産後に助けた母親が、赤ん坊を抱いて立っていた。


 エステルは一人一人の顔を見た。


 覚えている。全員の顔を覚えている。


 前の方で目が合った。泣いている人と。靴職人だった。


 エステルは微笑んだ。


 なぜ微笑めたかは分からない。でも笑えた。自然に。


 靴職人が、声を上げて泣いた。



 空を見上げた。


 春の朝の空だった。


 青かった。


 一点の雲もなかった。残酷なほど、晴れていた。


 ヘスペル村から見た空と、同じ空だ。


 村の川の傍で、空を見上げた時と同じ色だ。どこにいても、空は一つだ。


 エステルは思った。カイが紙を持っている。紙の中に、本当のことが書いてある。どこかの書庫の奥に隠される。百年後には誰も知らないかもしれない。でも、消えない。紙は、消えない。


 それで十分だ、と思えた。


 不思議だった。こんな朝に、十分だと思えた。



 目を閉じたくなかった。


 空を見たままでいたかった。


 最後まで、見ていたかった。


 春の青い空が、視界いっぱいに広がっていた。


 最後に考えたのは、マルクスのことだった。


 七歳の男の子。熱で死にかけていた。手を当てたら治った。翌朝、林檎を食べた。


「おなか、すいた」と言った声。あの普通の声が、全ての始まりだった。


 あれが最初だった。


 あれがよかった。あれが好きだった。


 あの瞬間のために、全部あったのかもしれない。


 良かった、とエステルは思った。


 マルクスを助けられて、良かった。


 それで——十分だった。



 広場の向こうで、誰かが叫んでいた。


「エステル!」


 ヘレナの声だった。


 衛兵に止められながら、叫んでいた。「この子は何もしていない! 聞いてください、この子は——」


 エステルはその声を聞いた。


 最後まで聞いた。


 ありがとう、とエステルは思った。


 来てくれてよかった。


 一人じゃなかった。


 一人じゃなかった、と最後に思えることが——何よりも、良かった。


 春の朝の空が、広がっていた。


 青かった。


 ただ、青かった。




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