最後の夜
夜半過ぎ。
足音が聞こえた。
軽い、忍ぶような足音だった。衛兵ではない。扉の前で止まった。鍵を開ける音がした。
扉が少し開いた。
若い男だった。修道士の服。十代後半か二十歳頃。油ランプを持っていた。手が震えていた。
入口で立ち止まって、エステルを見た。ひどく緊張した顔だった。
「……カイと申します。王都の神殿の修道士です。許可なく来ました。もし話したくなければ、このまま出て行きます」
エステルはカイを少し見た。
見知らぬ顔だった。礼拝堂に来た人の中にはいなかったと思う。
「なぜ来たのですか」
「礼拝堂に通っていた患者の家族から頼まれました。あなたに癒してもらったことがある家族です。何もできないけれど、せめて一人にしないでくれと。鍵番が、以前に患者として礼拝堂に来たことがあった人で——」
「座ってください」
エステルが言った。
カイが床に座った。ランプを間に置いた。光が二人の顔を照らした。
◇
「怖いですか」とカイが聞いた。
「怖いです」とエステルが言った。
「……そうですよね」
少し間があった。
「でも——一番怖いのは死ぬことじゃない」
エステルが続けた。
「誰にも伝わらないことが怖い。わたしが何をしたかったのか。なぜ暴走したのか。本当のことが誰にも分からないまま終わることが」
「……本当のことというのは」
「わたしは止めようとしていた。叫んでいた。でも裁判ではそれを証言できる人が呼ばれなかった。それに——」
エステルは壁を見た。
「礼拝堂の壁に何かが仕込まれていた気がします。何かが共鳴していた感じがした。普通の暴走とは違う感覚だった。でも、証明できない」
カイが黙って聞いていた。
「信じますか」
「信じます」と、カイはすぐに言った。
「なぜ」
「あなたが癒した人たちの話を聞いてきたから。礼拝堂に通ってきた人たちに話を聞きました。全員が言っていた。『エステル様は怒ったことがない。声を荒げたことがない。怖い顔をしたことがない。いつも心配して、いつも手を当ててくれた』と。そういう人が、突然暴走する理由がない」
「でも、なかったことの証明はできない」
「できません。でも——信じることと証明することは別のことだと思います」
◇
二人はしばらく、黙っていた。
カイがランプの油を確認して、少し調整した。
「カイさんは、なぜ修道士になったのですか」
「父が病気だったから。神殿の治癒師に助けてもらったから。自分もそういうことができる人間になりたいと思って」
「父上は今も」
「三年前に亡くなりました。でも——神殿で仕事をすることが好きになっていたから、続けています」
「そうですか」
少し間があった。
「エステル様は——癒すことが、好きでしたか」
好きだったか、という過去形の質問だった。
「好きでした」とエステルは言った。「誰かの痛みが引いていく感覚が好きだった。顔が変わる瞬間が好きだった。寝込んでいた人が翌日に起き上がったと聞く時が好きだった」
「それが本当のことですよね」
「本当のことです」
「でも——礼拝堂に来た人たちは、みんな知っています。歴史書には残らなくても、あの人たちの記憶には残る」
エステルは少し考えた。
「三十年後には、その人たちも死ぬ」
「子供に話すかもしれない。孫に話すかもしれない」
「百年後には消える」
「消えるかもしれない。でも——今夜、わたしはここにいます。あなたが一人でないことを証明するために。それだけは確かです」
◇
「カイさん。紙と墨を持っていますか」
「は、はい。修道士はいつも持ち歩いています。写本の作業があるので」
「書きたいことがあります。書いてもいいですか」
カイが紙と墨と筆を差し出した。
エステルは受け取った。
床にランプを置いて、紙を膝の上に広げた。
何を書くか、もう考えていた。
書いた。
震える手で、でも丁寧に、一字一字。
ヘスペル村のこと。マルクスの熱のこと。父の「目立つな」という言葉のこと。王都に来た時の驚きのこと。ヘレナのこと。紅茶のこと。礼拝堂で毎日会った人たちのこと。
それから、本当のことを書いた。
暴走した夜の感覚。外から干渉が来ていたこと。止めようとしたこと。壁の中に何かがあった感じがしたこと。
最後に一行書いた。
筆を置いた。
「読んでください」
カイが紙を受け取った。
読んだ。
読みながら、目が赤くなった。途中で一度、止まった。手の甲で目元を押さえた。
最後まで読んだ。
「……これを、どうすれば」
「どこかに隠してください。神殿の書庫の奥でも、屋根裏でも。見つけてもらえるかもしれないから。見つけてもらえなくてもいい。でも、残したい。なくなってほしくない」
「必ず」
カイの声がかすれていた。
「わたしが死んでも、これだけは残してください。お願いします」
「必ず残します。誓います」
エステルは頷いた。
「ありがとうございます」
◇
夜明けまで、二人は話した。
エステルが話した。ヘスペル村の秋の林檎のこと。川の水の冷たさ。父が作る豆のスープ。村の子供たちの名前。ヘレナに教わった礼法の難しさ。礼拝堂に来た人の中で、特に印象に残った人のこと。
泣かなかった。
泣く必要はなかった。今夜は話したかった。誰かに聞いてもらいたかった。
カイは黙って聞いていた。
窓の向こうの空が、少しずつ明るくなり始めた頃、カイが言った。
「夜明けです」
「そうですね」
二人で空を見た。格子の向こうの、細い夜明け。
「カイさん」
「はい」
「来てくれてよかった。本当に」
「……来るべきでした。もっと早く来るべきでした」
「今夜来てくれたことで十分です」
カイが泣いていた。声を出さずに泣いていた。
エステルは不思議だった。自分より、カイの方が泣いている。
それが、この夜一番、温かいものだった。
◇
最後に書いた一行は、こうだった。
『もしいつか、三百年後に、わたしと同じ力を持つ誰かが生まれたなら——どうか、一人にしないでください。
わたしは一人だった。止めようとしたが、止められなかった。叫んだが、届かなかった。
それが一番、怖かった。
一人では、どうにもならないことがある。
次の人が、一人でありませんように。
誰かと一緒に、いられますように。
エステル』




