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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
エステル——三百年前の春

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最後の夜

 夜半過ぎ。


 足音が聞こえた。


 軽い、忍ぶような足音だった。衛兵ではない。扉の前で止まった。鍵を開ける音がした。


 扉が少し開いた。


 若い男だった。修道士の服。十代後半か二十歳頃。油ランプを持っていた。手が震えていた。


 入口で立ち止まって、エステルを見た。ひどく緊張した顔だった。


「……カイと申します。王都の神殿の修道士です。許可なく来ました。もし話したくなければ、このまま出て行きます」


 エステルはカイを少し見た。


 見知らぬ顔だった。礼拝堂に来た人の中にはいなかったと思う。


「なぜ来たのですか」


「礼拝堂に通っていた患者の家族から頼まれました。あなたに癒してもらったことがある家族です。何もできないけれど、せめて一人にしないでくれと。鍵番が、以前に患者として礼拝堂に来たことがあった人で——」


「座ってください」


 エステルが言った。


 カイが床に座った。ランプを間に置いた。光が二人の顔を照らした。



「怖いですか」とカイが聞いた。


「怖いです」とエステルが言った。


「……そうですよね」


 少し間があった。


「でも——一番怖いのは死ぬことじゃない」


 エステルが続けた。


「誰にも伝わらないことが怖い。わたしが何をしたかったのか。なぜ暴走したのか。本当のことが誰にも分からないまま終わることが」


「……本当のことというのは」


「わたしは止めようとしていた。叫んでいた。でも裁判ではそれを証言できる人が呼ばれなかった。それに——」


 エステルは壁を見た。


「礼拝堂の壁に何かが仕込まれていた気がします。何かが共鳴していた感じがした。普通の暴走とは違う感覚だった。でも、証明できない」


 カイが黙って聞いていた。


「信じますか」


「信じます」と、カイはすぐに言った。


「なぜ」


「あなたが癒した人たちの話を聞いてきたから。礼拝堂に通ってきた人たちに話を聞きました。全員が言っていた。『エステル様は怒ったことがない。声を荒げたことがない。怖い顔をしたことがない。いつも心配して、いつも手を当ててくれた』と。そういう人が、突然暴走する理由がない」


「でも、なかったことの証明はできない」


「できません。でも——信じることと証明することは別のことだと思います」



 二人はしばらく、黙っていた。


 カイがランプの油を確認して、少し調整した。


「カイさんは、なぜ修道士になったのですか」


「父が病気だったから。神殿の治癒師に助けてもらったから。自分もそういうことができる人間になりたいと思って」


「父上は今も」


「三年前に亡くなりました。でも——神殿で仕事をすることが好きになっていたから、続けています」


「そうですか」


 少し間があった。


「エステル様は——癒すことが、好きでしたか」


 好きだったか、という過去形の質問だった。


「好きでした」とエステルは言った。「誰かの痛みが引いていく感覚が好きだった。顔が変わる瞬間が好きだった。寝込んでいた人が翌日に起き上がったと聞く時が好きだった」


「それが本当のことですよね」


「本当のことです」


「でも——礼拝堂に来た人たちは、みんな知っています。歴史書には残らなくても、あの人たちの記憶には残る」


 エステルは少し考えた。


「三十年後には、その人たちも死ぬ」


「子供に話すかもしれない。孫に話すかもしれない」


「百年後には消える」


「消えるかもしれない。でも——今夜、わたしはここにいます。あなたが一人でないことを証明するために。それだけは確かです」



「カイさん。紙と墨を持っていますか」


「は、はい。修道士はいつも持ち歩いています。写本の作業があるので」


「書きたいことがあります。書いてもいいですか」


 カイが紙と墨と筆を差し出した。


 エステルは受け取った。


 床にランプを置いて、紙を膝の上に広げた。


 何を書くか、もう考えていた。


 書いた。


 震える手で、でも丁寧に、一字一字。


 ヘスペル村のこと。マルクスの熱のこと。父の「目立つな」という言葉のこと。王都に来た時の驚きのこと。ヘレナのこと。紅茶のこと。礼拝堂で毎日会った人たちのこと。


 それから、本当のことを書いた。


 暴走した夜の感覚。外から干渉が来ていたこと。止めようとしたこと。壁の中に何かがあった感じがしたこと。


 最後に一行書いた。


 筆を置いた。


「読んでください」


 カイが紙を受け取った。


 読んだ。


 読みながら、目が赤くなった。途中で一度、止まった。手の甲で目元を押さえた。


 最後まで読んだ。


「……これを、どうすれば」


「どこかに隠してください。神殿の書庫の奥でも、屋根裏でも。見つけてもらえるかもしれないから。見つけてもらえなくてもいい。でも、残したい。なくなってほしくない」


「必ず」


 カイの声がかすれていた。


「わたしが死んでも、これだけは残してください。お願いします」


「必ず残します。誓います」


 エステルは頷いた。


「ありがとうございます」



 夜明けまで、二人は話した。


 エステルが話した。ヘスペル村の秋の林檎のこと。川の水の冷たさ。父が作る豆のスープ。村の子供たちの名前。ヘレナに教わった礼法の難しさ。礼拝堂に来た人の中で、特に印象に残った人のこと。


 泣かなかった。


 泣く必要はなかった。今夜は話したかった。誰かに聞いてもらいたかった。


 カイは黙って聞いていた。


 窓の向こうの空が、少しずつ明るくなり始めた頃、カイが言った。


「夜明けです」


「そうですね」


 二人で空を見た。格子の向こうの、細い夜明け。


「カイさん」


「はい」


「来てくれてよかった。本当に」


「……来るべきでした。もっと早く来るべきでした」


「今夜来てくれたことで十分です」


 カイが泣いていた。声を出さずに泣いていた。


 エステルは不思議だった。自分より、カイの方が泣いている。


 それが、この夜一番、温かいものだった。



 最後に書いた一行は、こうだった。


 『もしいつか、三百年後に、わたしと同じ力を持つ誰かが生まれたなら——どうか、一人にしないでください。


 わたしは一人だった。止めようとしたが、止められなかった。叫んだが、届かなかった。


 それが一番、怖かった。


 一人では、どうにもならないことがある。


 次の人が、一人でありませんように。


 誰かと一緒に、いられますように。


                   エステル』




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