裁判
翌朝早く、衛兵が来た。
「裁判の時間だ」
まだ夜が明けたばかりだった。格子窓の向こうの空が、ようやく白みかけている程度だった。
こんなに早いのか、とエステルは思った。
一晩中、眠れなかった。眠れるはずがなかった。石の床で膝を抱えたまま、蝋燭が燃え尽きるのを見ていた。暗くなってからは、格子窓の向こうの空を見ていた。星が出ていた。雲が流れた。また星が見えた。
力がなかった。腕も足も、いつもの半分しか動かない気がした。
立ち上がった。
◇
連れていかれた部屋は、小さかった。
謁見の間ではない。もっと小さい、会議のための部屋のような場所。窓もない。燭台が四つ。中央に長い机。一方に裁判官が三人。もう一方に、椅子が一つ。
エステルが椅子に座らされた。
弁護人はいなかった。
裁判官の一人が文書を読み上げた。罪状。「王宮付属礼拝堂の半壊。衆人の前での意図的な魔力暴走。反乱の疑い」
意図的、という言葉がエステルの胸に刺さった。
「意図的ではありません」
言った。声に力を入れようとしたが、一晩の疲れで声が掠れていた。
「証言する前に証人を呼ぶ」と裁判官が言った。
◇
証人が三人来た。
一人目は宮廷の侍従だった。礼拝堂の外で見ていたという。「突然、礼拝堂の中が光り始めた。エステルが腕を広げて、声を上げていた」と言った。
二人目は礼拝堂の中にいた患者の一人だった。「エステルが突然、目の色が変わったように見えた。意図的に魔力を放ったように見えた」と言った。
三人目は、別の侍従だった。「逃げ惑う人の間で、エステルが笑っていた気がする」と言った。
最後の証言は嘘だった。エステルは笑っていない。叫んでいた。止まれと叫んでいた。
「異議があります」
エステルが言った。
「笑っていません。止めようとして叫んでいました。聞こえていた人がいれば分かるはずです」
「その証人を呼べますか」
「……ヘレナが聞こえたかもしれません。王宮の侍女です」
「ヘレナという者は?」と裁判官が部屋の端に立つ書記に確認した。
書記が文書を確認した。「礼拝堂の外にいたと記録されています。入口には近かったかと」
「呼べますか」
裁判官が少し間を置いた。「本裁判は速やかな結審が必要とされています。追加証人の召喚は時間を要する。却下します」
◇
エステルは続けた。
「暴走には外部からの干渉があったと思います。力が逆流するような感覚がありました。壁から何かが共鳴していた感じがありました」
「共鳴? 具体的に説明できますか」
「上手く言えません。でも——いつもとは全く違う感覚でした。自分の力が自分の意志に従わなかった。それは確かです」
「魔力の暴走は制御できなかった、ということですね。制御できない力を、人前で使った」
「違います。制御しようとしました。できなかっただけで——」
「できなかった、というのは同じことです」
言葉が詰まった。
論理が先に動いて、エステルの言葉を塗り潰した。
もう一度、言おうとした。
「壁の中に何かが仕込まれていたかもしれません。礼拝堂の工事が三日前にありました。補強工事と聞いていましたが——」
「礼拝堂の工事は正規の手続きに従って行われたものです。関係ありません」
裁判官は文書を見た。もうエステルの方を見ていなかった。
「他に何かありますか」
エステルは考えた。
言えることを全部言ったかもしれない。証拠はない。証人も呼ばれない。壁の中の石は、もう崩れた礼拝堂の中にある。
自分に有利な材料が、何一つない。
「……ありません」
◇
評議は短かった。
裁判官三人が少し言葉を交わした。五分もかからなかった。
「有罪。即日執行」
部屋が静かだった。
エステルは椅子の上で、自分の手を見た。
手が震えていた。
声が出なかった。何か言おうとしたが、言葉の順番が分からなくなった。
衛兵が立ち上がるよう促した。
裁判官が書類を読んでいた。もう視線が向いていない。
廊下に出た。廊下を歩いた。足が地面についているのか分からなかった。
◇
途中、角の向こうにヘレナが立っていた。
面会を求めて待っていたのだろう。衛兵に止められていた。疲れた顔をしていた。目が赤かった。一晩中待っていたのかもしれない。
「エステル!」
ヘレナの声が廊下に響いた。
「待って、話を聞いてください、この子は何もしていない、証言させてください——」
「面会は許可されていない。下がれ」
「エステル!」
振り返った。ヘレナの顔が見えた。泣いていた。
エステルは首を横に振った。
来ないで、という意味ではなかった。
ありがとう、の意味だった。
大丈夫、の意味だった。
ヘレナには伝わったかもしれないし、伝わらなかったかもしれない。
角を曲がったら、見えなくなった。
◇
房に戻された。
翌朝、執行される。
蝋燭がまた一本。前の夜と同じ部屋。同じ石の壁。同じ格子窓。
エステルは床に座って、天井を見上げた。
死ぬということが、今になってようやく実感として来た。明日の朝、ここから連れ出されて、処刑される。処刑台を見たことはないが、広場にあると聞いていた。
怖いか。
怖い、と思った。
でも一番怖いのはそれではなかった。
もっと怖いのは——誰にも伝わらないことだった。
なぜ暴走したか。外から何かが干渉していたこと。自分は止めようとしていたこと。
それが全部「反乱を起こした聖女」という言葉に塗り潰されて、三百年残る。
誰かが調べてくれるかもしれない。でも、調べる理由がない。調べた結果が出ても、もう遅い。
エステルは目を閉じた。
蝋燭の光が瞼の向こうで揺れていた。
ヘスペル村の秋を思った。林檎の匂い。川の水。マルクスが走り回る声。
父の、固くなった手の感触。
すぐ帰るよ、と言った。
嘘をついた。信じていたのに、嘘になってしまった。




