誘発の夜
その日のエステルは、朝から疲れていた。
三日前から続いている疲れだった。月に一度の市に合わせた来訪者の集中が三日続いて、毎日二十人以上を診ていた。
起き上がった時から、身体が重かった。朝食を少し食べて、礼拝堂に向かった。
ヘレナが入口で待っていた。
「顔色が悪い」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔をしている」
「今日は十五人。それが終わったら休む」
「今日は二十三人来ている。昨日より増えてる。市の最終日だから遠方から来た人も多い」
エステルは少し立ち止まった。
「……全員、今日来なかったら困る事情がある人ばかり?」
「聞いてきたわ。半分くらいはそう。あとの半分は明日でも大丈夫だと思う」
「じゃあ半分の十二人だけ今日診る。残りは明日に来てもらうようにお願いして」
「分かった。それくらいなら無理じゃないわね」
ヘレナが順番を調整してくれた。
エステルは礼拝堂に入った。
石の壁。高い窓からの光。祭壇の蝋燭。見慣れた場所だった。三ヶ月近く、毎日ここにいた。
何も気になることはなかった。
◇
昼まで七人を診た。
昼食を少し食べた。食欲がなかった。ヘレナが「今日の午後は休んだら」と言った。「あと五人だけ」とエステルは言った。
午後、また礼拝堂に入った。
五人を診るはずだった。
六人目に重症の子供が連れてこられた。高熱。もう五日続いているという。父親が必死な顔をしていた。
断れなかった。
七人目は老婆だった。呼吸が苦しいという。
断れなかった。
八人目は——。
気がつくと、外が赤くなっていた。夕陽だ。
身体の感覚が薄くなっていた。手先が遠い感じがした。力を使いすぎた時の感覚。でも、目の前にまだ人がいる。
「最後の一人」と言い聞かせながら、次の人に手を当てた。
◇
最後の一人に手を当てた時、最初の違和感があった。
胸の内側で何かが揺れた。
いつもとは違う感覚だった。自分の中から出ていく力ではなく、外から何かが引っ張っているような。内側から押し広げられるような。
変だ、とエステルは思った。
止めようとした。
できなかった。
力が逆流した。自分の意志と関係なく、外へ。広がっていく。礼拝堂の中に。壁に。石に。
「エステル? どうしたの」とヘレナが声をかけた。
「分からない。変な感じがする。手が止まらない」
「手を離して。患者から手を離して」
離そうとした。離せなかった。指が石のように固まっていた。力が流れ続けていた。
患者が怯えた顔をしていた。
「やめて」とエステルは言った。自分の力に向かって。「止まって」
止まらなかった。
◇
礼拝堂の壁が光を帯び始めた。
石の継ぎ目から、白い光が滲み出てくるような。壁が温かくなっている。エステルは感じた。壁が呼応している。何かが壁の中から応答している。
それが引き金だった。
力が爆発的に広がった。エステルの制御が完全に外れた。
「来るな!」と誰かが叫んだ。礼拝堂の外から見ていた人たちが逃げ始めた。中にいた人たちも、椅子を倒して出口に向かった。
エステルは叫んだ。
「止まって、止まってください、やめて、やめて——」
声が届いたかどうか分からない。力が渦巻いていた。礼拝堂の中全体が揺れているように感じた。
柱にひびが入った。
石が鳴った。
天井の一部が崩れた。埃が舞った。小さな石が落ちた。誰かが怪我をしたかもしれない。声が聞こえた。逃げる音。転ぶ音。
エステルは床に倒れた。
力が空になっていた。
煙のような埃の中で、仰向けになっていた。天井の一部が崩れて、空が見えていた。夕陽の赤い空。
何が起きたのか分からなかった。
なぜ止まらなかったのかが分からなかった。
外から何かが来ていた。
確かに感じた。壁から。石から。何かが共鳴していた。
◇
「エステル!」ヘレナの声が近づいた。
足音が礼拝堂の入口から入ってきた。別の足音。重い足音。鎧の音。
「その娘を拘束しろ」
低い声だった。
埃の向こうに、黒い服の人影が立っていた。
白い髪。整然となでつけた髪。
ガウスだった。
静かな目で礼拝堂を見回した後、声を上げた。
「反乱だ。取り押さえろ」
◇
両腕を掴まれた。
立ち上がれなかった。力が入らない。衛兵が脇を抱えて引き起こした。
「違います」とエステルは言った。「違う、わたしは止めようとした——」
誰も聞いていなかった。
「エステル!」
ヘレナの声が聞こえた。入口を衛兵に塞がれていた。ヘレナが叫んでいた。「この子は何もしていない、話を聞いてください、証言します——」
「関係者は下がれ」
廊下に引きずり出された。
ヘレナの声が遠くなった。
エステルは連れていかれながら、後ろを見た。
ヘレナが衛兵に押されながら、それでも叫んでいた。泣きながら叫んでいた。
エステルは声を出せなかった。
声が出るほどの力が残っていなかった。
◇
地下の拘置房は冷たかった。
石の床。石の壁。小さな格子窓から、夜空の一部が見えた。蝋燭が一本。明かりはそれだけだった。
エステルは膝を抱えて、壁に背を当てていた。
何が起きたかを、ゆっくり整理しようとした。
暴走した。建物が壊れた。人が逃げた。怪我人は出たのだろうか。死者は。分からなかった。聞けなかった。
なぜ止まらなかったのか。
あんなことは、一度もなかった。力を使いすぎた時の感覚は知っている。それは「使えなくなる」感覚だ。外に向かって制御できなくなるのは、別の感覚だ。
外から何かが来ていた。
確かに感じた。壁から。石から。何かが共鳴していた。
でも証明できない。
ヘレナがどうなったかも分からなかった。
エステルは蝋燭の火を見ていた。
揺れている。空気がほとんどない部屋でも、揺れている。
怖かった。
死ぬかもしれない。そう思った。
初めて考えた。ヘスペル村を出た時は、こうなるとは思っていなかった。「すぐ帰る」と言っていた。それが今、地下の房にいる。
怖かったが、泣かなかった。
泣いても、何も変わらない。それだけは分かっていた。




