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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
エステル——三百年前の春

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誘発の夜

 その日のエステルは、朝から疲れていた。


 三日前から続いている疲れだった。月に一度の市に合わせた来訪者の集中が三日続いて、毎日二十人以上を診ていた。


 起き上がった時から、身体が重かった。朝食を少し食べて、礼拝堂に向かった。


 ヘレナが入口で待っていた。


「顔色が悪い」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない顔をしている」


「今日は十五人。それが終わったら休む」


「今日は二十三人来ている。昨日より増えてる。市の最終日だから遠方から来た人も多い」


 エステルは少し立ち止まった。


「……全員、今日来なかったら困る事情がある人ばかり?」


「聞いてきたわ。半分くらいはそう。あとの半分は明日でも大丈夫だと思う」


「じゃあ半分の十二人だけ今日診る。残りは明日に来てもらうようにお願いして」


「分かった。それくらいなら無理じゃないわね」


 ヘレナが順番を調整してくれた。


 エステルは礼拝堂に入った。


 石の壁。高い窓からの光。祭壇の蝋燭。見慣れた場所だった。三ヶ月近く、毎日ここにいた。


 何も気になることはなかった。



 昼まで七人を診た。


 昼食を少し食べた。食欲がなかった。ヘレナが「今日の午後は休んだら」と言った。「あと五人だけ」とエステルは言った。


 午後、また礼拝堂に入った。


 五人を診るはずだった。


 六人目に重症の子供が連れてこられた。高熱。もう五日続いているという。父親が必死な顔をしていた。


 断れなかった。


 七人目は老婆だった。呼吸が苦しいという。


 断れなかった。


 八人目は——。


 気がつくと、外が赤くなっていた。夕陽だ。


 身体の感覚が薄くなっていた。手先が遠い感じがした。力を使いすぎた時の感覚。でも、目の前にまだ人がいる。


「最後の一人」と言い聞かせながら、次の人に手を当てた。



 最後の一人に手を当てた時、最初の違和感があった。


 胸の内側で何かが揺れた。


 いつもとは違う感覚だった。自分の中から出ていく力ではなく、外から何かが引っ張っているような。内側から押し広げられるような。


 変だ、とエステルは思った。


 止めようとした。


 できなかった。


 力が逆流した。自分の意志と関係なく、外へ。広がっていく。礼拝堂の中に。壁に。石に。


「エステル? どうしたの」とヘレナが声をかけた。


「分からない。変な感じがする。手が止まらない」


「手を離して。患者から手を離して」


 離そうとした。離せなかった。指が石のように固まっていた。力が流れ続けていた。


 患者が怯えた顔をしていた。


「やめて」とエステルは言った。自分の力に向かって。「止まって」


 止まらなかった。



 礼拝堂の壁が光を帯び始めた。


 石の継ぎ目から、白い光が滲み出てくるような。壁が温かくなっている。エステルは感じた。壁が呼応している。何かが壁の中から応答している。


 それが引き金だった。


 力が爆発的に広がった。エステルの制御が完全に外れた。


「来るな!」と誰かが叫んだ。礼拝堂の外から見ていた人たちが逃げ始めた。中にいた人たちも、椅子を倒して出口に向かった。


 エステルは叫んだ。


「止まって、止まってください、やめて、やめて——」


 声が届いたかどうか分からない。力が渦巻いていた。礼拝堂の中全体が揺れているように感じた。


 柱にひびが入った。


 石が鳴った。


 天井の一部が崩れた。埃が舞った。小さな石が落ちた。誰かが怪我をしたかもしれない。声が聞こえた。逃げる音。転ぶ音。


 エステルは床に倒れた。


 力が空になっていた。


 煙のような埃の中で、仰向けになっていた。天井の一部が崩れて、空が見えていた。夕陽の赤い空。


 何が起きたのか分からなかった。


 なぜ止まらなかったのかが分からなかった。


 外から何かが来ていた。


 確かに感じた。壁から。石から。何かが共鳴していた。



「エステル!」ヘレナの声が近づいた。


 足音が礼拝堂の入口から入ってきた。別の足音。重い足音。鎧の音。


「その娘を拘束しろ」


 低い声だった。


 埃の向こうに、黒い服の人影が立っていた。


 白い髪。整然となでつけた髪。


 ガウスだった。


 静かな目で礼拝堂を見回した後、声を上げた。


「反乱だ。取り押さえろ」



 両腕を掴まれた。


 立ち上がれなかった。力が入らない。衛兵が脇を抱えて引き起こした。


「違います」とエステルは言った。「違う、わたしは止めようとした——」


 誰も聞いていなかった。


「エステル!」


 ヘレナの声が聞こえた。入口を衛兵に塞がれていた。ヘレナが叫んでいた。「この子は何もしていない、話を聞いてください、証言します——」


「関係者は下がれ」


 廊下に引きずり出された。


 ヘレナの声が遠くなった。


 エステルは連れていかれながら、後ろを見た。


 ヘレナが衛兵に押されながら、それでも叫んでいた。泣きながら叫んでいた。


 エステルは声を出せなかった。


 声が出るほどの力が残っていなかった。



 地下の拘置房は冷たかった。


 石の床。石の壁。小さな格子窓から、夜空の一部が見えた。蝋燭が一本。明かりはそれだけだった。


 エステルは膝を抱えて、壁に背を当てていた。


 何が起きたかを、ゆっくり整理しようとした。


 暴走した。建物が壊れた。人が逃げた。怪我人は出たのだろうか。死者は。分からなかった。聞けなかった。


 なぜ止まらなかったのか。


 あんなことは、一度もなかった。力を使いすぎた時の感覚は知っている。それは「使えなくなる」感覚だ。外に向かって制御できなくなるのは、別の感覚だ。


 外から何かが来ていた。


 確かに感じた。壁から。石から。何かが共鳴していた。


 でも証明できない。


 ヘレナがどうなったかも分からなかった。


 エステルは蝋燭の火を見ていた。


 揺れている。空気がほとんどない部屋でも、揺れている。


 怖かった。


 死ぬかもしれない。そう思った。


 初めて考えた。ヘスペル村を出た時は、こうなるとは思っていなかった。「すぐ帰る」と言っていた。それが今、地下の房にいる。


 怖かったが、泣かなかった。


 泣いても、何も変わらない。それだけは分かっていた。




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