ガウスの計算
ガウスはエステルが王宮に来た日から、観察を始めた。
宰相として二十年。王宮で何が危険で何が安全かを、ガウスは身体で知っていた。制度の亀裂がどこから来るか。権力の崩れがどこから始まるか。三つの王朝が交代する場面を、彼は書類の中で追ってきた。
権力とは信頼の積み重ねだ。民が王を信頼する。家臣が王を信頼する。その積み重ねが崩れた時に、王朝は終わる。
崩れるきっかけは、いつも「より慕われる誰か」の出現だった。
◇
エステルが来て最初の一週間、ガウスは距離を置いて見ていた。
礼拝堂を訪れる者の数。来た者の表情。帰る時に何を言っているか。侍女の間での噂。調理場での評判。
第一の観察。エステルに悪意はない。
これは確かだった。政治的な思惑を持つ者が見せる目の動きを、エステルはしない。権力者に媚びることもしない。国王に対して、侍従に対して、平民に対して、目線が変わらない。
第二の観察。エステルの影響力は急速に広がっている。
二週目。礼拝堂への来訪者が倍になった。三週目。王都の市民が門まで来るようになった。一ヶ月。使用人の間での呼称が「エステル嬢」から「聖女様」に変わった。
聖女。
その言葉をガウスは街で偶然聞いた。
市場で買い物をしていた女が、隣の女に言っていた。「王宮に聖女様がいるんですって。手を当てるだけで病が治るって。昨日うちの子も診てもらったら、翌朝には元気になって」
ガウスは足を止めなかった。歩き続けながら、計算した。
◇
三ヶ月後、結論は出ていた。
エステルは排除しなければならない。
誤解しないでほしい、とガウスは自分に言い聞かせた。彼女が悪人だからではない。むしろ逆だ。善意しかない人間が、制御されない形で慕われる時、それは最も危険な権力の空白を生む。
歴史は繰り返す。「民に慕われた聖人」が政治的に利用され、その人物の意志と無関係に権力闘争の道具になった例は、過去に三例ある。三例とも、国が不安定になった。一例は内乱が起きた。
エステル自身が動くつもりがなくても、周囲が動く。「聖女の意を受けて」と名乗る者が必ず出てくる。そうなった時に止める手段が、今のままではない。
排除の方法を、ガウスは一週間かけて考えた。
単純な追放では不十分だ。王都から出しても、エステルへの民の信頼は残る。「なぜ追放されたか」という噂が広がれば、かえって悲劇の聖女として神格化が進む。
必要なのは「排除の理由」だ。
誰もが納得できる理由。同情の余地がない理由。「やむを得なかった」ではなく、「当然だった」と思わせる理由。
暴走。
聖魔力の暴走は、民に対する脅威だ。意図的かどうかは関係ない。建物が崩れ、人が逃げ惑う場面を見た者は、「危険な力」という記憶だけを持つ。そこに「反乱の意図があった」という説明を加えれば、完成する。
◇
共鳴鉱石というものがある。
強い魔力と接触した時に、その魔力を増幅・不安定化させる性質を持つ鉱石だ。魔術研究では実験用に使われるが、量が多ければ危険なため厳重に管理されている。
ガウスは王宮の魔術研究部門に「礼拝堂の補強工事の材料として必要」という名目で申請した。魔術研究部門の責任者はガウスの影響下にいる。書類は通った。
礼拝堂の「補強工事」は三日で終わった。
石工は、壁の基石の間に共鳴鉱石を数個埋め込んだ。目立たない場所に。見ただけでは分からない深さに。
工事が終わった後、ガウスは礼拝堂に一人で入った。
見回した。
変わった様子はない。光の入り方も同じ。空気も同じ。
ただ、石の中に仕掛けが埋まっている。
エステルが通常の状態で使う分には、何も起きない。共鳴鉱石は「強い」魔力に反応する。通常の使用では閾値を超えない。
だが、消耗したエステルが無理をして使い続ければ。感情が高ぶった状態で使えば。制御が少し緩めば。
その時に、鉱石が共鳴を始める。一度始まれば、増幅のループが起きる。エステルの意志で止めることはできなくなる。
◇
ガウスはもう一つ手を打った。
礼拝堂での癒しの時間を夕刻に移させた。「午前より午後の方が魔力の流れが安定する」という書類を作成し、礼拝堂担当の侍従に渡した。
夕刻は一日の疲れが蓄積している時間帯だ。
来訪者の数を徐々に増やした。急に増やせば不自然だから、少しずつ。外からの案内板を増やした。王都の市場での触れ込みを許可した。月に一度の市に合わせて来訪者が集中する日を設定した。
準備は整った。
後は待つだけだ。
◇
ガウスには迷いがなかった。
これは国のためだ。
善良な少女を排除することに、感情的な痛みがないわけではない。エステルは純粋だ。悪意がない。ただ癒したいだけだ。
だからこそ、早い方がいい。
この少女が何年も王都にいれば、あるいは彼女自身が政治を学べば、もっと対処が困難になる。今ならまだ、ただの少女だ。
ガウスは礼拝堂の外から、夕陽の中でエステルが仕事をしているのを遠目に見た。
患者に手を当てながら、何か話している。笑顔だった。
良い笑顔だ、とガウスは思った。
だからこそ、と繰り返した。
◇
ガウスが一つだけ考えなかったことがある。
それは、三百年後のことだった。
この排除が正しいかどうかは、今の王朝の安定だけで測れる。三百年後に誰かが調べれば、別の答えが出るかもしれない。
だがそれは、ガウスの仕事ではない。
ガウスの仕事は今の国を守ることだ。
今の王朝が安定することだ。
そう判断して、ガウスは文書を一枚、引き出しの奥にしまった。礼拝堂の補強工事の申請書。共鳴鉱石の使用記録。
万が一の証拠。残してはいけないと知りながら、捨てることもできなかった。
なぜ捨てられなかったのか、ガウス自身には分からなかった。
良い笑顔だ、と思った記憶が、指を止めたのかもしれない。
でもその紙は、引き出しの奥に入れられたまま、三百年後に別の人間が見つけるまで、そこにあり続けることになる。




