王都
馬車で四日かかった。
エステルは窓の外をずっと見ていた。田舎道が街道になり、街道が広くなり、行き交う人が増えた。川を渡った。橋が石造りだった。村の木の橋とは違う。石でできているのに、水の上に浮かんでいる。人間はこんなものを作るのかと思った。
三日目の夕方に、遠くに王都の城壁が見えた。
高かった。
こんなに高い壁を、人間が積み上げたのかと思った。
王都に入ると、音が変わった。村は風の音と鳥の声と人の声だった。ここは全ての音が混ざっている。馬蹄。荷車の軋み。行商人の呼び声。子供の笑い声。何かを叩く音。煙の匂い。食べ物の匂い。見たことのない料理。聞いたことのない言葉。
エステルは窓から顔を出すことも忘れて、ただ圧倒されていた。
村が小さかったのではない。
世界が大きかった。
◇
翌朝、王宮に連れていかれた。
廊下が長かった。絨毯が敷かれていた。赤い絨毯。見たことのない赤さだった。壁に絵が飾られていた。人物画。風景画。額縁だけでも村の一軒家より高そうだった。
歩き方を考えすぎた。気にしすぎて、かえっておかしくなった。
謁見の間に入った。
天井が高かった。光が差し込んでいた。正面に玉座があり、国王フリードリヒ三世が座っていた。
四十代の男だった。白髪交じりの髭。重い表情。威厳はあるが、目の奥に何か疲れたものがあった。
「お前が癒しの力を持つ娘か」
「はい、陛下」
声が震えた。謁見というものは初めてだった。礼法も分からない。膝をついていいのかどうかも分からない。とにかく深く頭を下げた。
「見せてみろ。本物かどうか確かめたい」
侍医が連れてこられた。老人。長年の腰痛で前傾みになっているという。エステルは老人の傍に跪き、腰に手を当てた。
温かいものが流れた。
一分ほど。老人が少しずつ、背筋を伸ばした。
「……痛みが消えた。三十年ぶりに、真っ直ぐ立てる」
謁見の間がざわめいた。
国王が言った。
「お前は王宮に残れ。礼拝堂を使う場所として与える。民を癒す仕事をしろ。衣食住は王宮が保証する」
「……はい」
エステルは頷いた。
帰れると思っていた。用件が終われば帰れると。その考えが砕けた瞬間だった。
◇
礼拝堂は王宮の東側にある建物だった。
石造り。高い窓から光が入る。正面に祭壇。左右に長椅子。広くはないが、清潔だった。
最初に親切にしてくれたのは、ヘレナだった。
二十歳の宮廷侍女。明るい茶色の髪。話し方が早くて、最初は半分しか聞き取れなかった。
「あなたがエステル? 噂は聞いてるわ。農村から来た聖魔力の子でしょう。王都の礼法は分かる? 分からないわよね、当然。教えてあげる。まず歩き方から」
その日の午後、礼拝堂の外でヘレナに歩き方の指導を受けた。
「背筋を伸ばして。顎を引いて。視線は相手の首元。貴族の前では視線を合わせすぎず、かといって逸らしすぎず」
「難しい」
「慣れるわ。三ヶ月もいれば自然になる」
三ヶ月。エステルはその言葉に引っかかったが、聞かなかった。
三ヶ月で帰れるかもしれない。そう思いたかった。
◇
礼拝堂での癒しは、最初は一日に十人から十五人だった。
最初は宮廷の者だけだった。侍従の捻挫。調理番の火傷。子供を持つ侍女の疲労。軽い症状が多かった。
それが一ヶ月もすると、変わった。
重い病の者が来るようになった。薬で治らない者が来るようになった。平民も来るようになった。王宮の使用人ではなく、王都の市民が「聖女様」と呼んで門まで来るようになった。
門番が最初は追い返していたが、国王が「通してやれ」と言った。
礼拝堂は常に人が来る場所になった。
エステルは疲れた。毎日疲れた。力を使いすぎた日の夜は、手が震えて食事が取れないこともあった。
でも帰れなかった。目の前に苦しんでいる人がいれば、手を当てないでいられなかった。
◇
ある夕方、ヘレナが礼拝堂の入口でエステルを待っていた。
「あなた、消耗してる。休まないと」
「大丈夫。もう少し。あの人は三日も待っている」
「明日来てもらえばいい」
「待っている間に悪化するかもしれない」
「エステル」
ヘレナが珍しく、強い声を出した。
「死んだら、一人も癒せなくなる。一日十人癒して十年続ける方が、無理して三年で倒れるより多くの人を助けられる。計算してみて」
エステルは少し考えた。
「……そうですね」
「でしょう。じゃあ今日はここまで。紅茶を持ってきてあげる。蜂蜜を入れてあげるから、甘いのを飲んで休んで」
ヘレナの紅茶は甘かった。
温かかった。
エステルはその温かさに、少しだけヘスペル村の秋を思い出した。母が死んでから父が作るようになった、薄い麦のスープとは全然違うけれど、誰かが「飲め」と差し出してくれる温かさは同じだった。
◇
毎日、少しずつ、ヘレナがエステルの限界を守ってくれた。
「今日はここまで」「明日また来てもらいなさい」「あなたが倒れたら誰が困るか考えなさい」
王宮の礼法もヘレナが教えてくれた。食事の順番。席次。挨拶の仕方。貴族の格による頭の下げ方の角度。
「覚えることが多すぎる」
「一度に全部覚えなくていい。間違えたら教えてあげる。間違えることは恥じゃないわ。知らないで間違え続けることが恥なの」
エステルはヘレナを、姉のように感じていた。
村を出て、一人になったと思っていた。でも、ここにヘレナがいた。
王都に来て二ヶ月が経った頃、ある夜にエステルはヘレナに聞いた。
「ヘレナ。あなたは王宮に来る前、どんな暮らしをしていたの」
「地方貴族の次女よ。田舎の屋敷。退屈な日々。だから王都に来られた時は嬉しかったわ」
「帰りたいとは思わない?」
「思うことはあるわ。でも、ここで友人ができると、また違ってくる」
友人、という言葉が胸に落ちた。
エステルは少し考えてから、言った。
「わたしは帰りたい。ヘスペル村に」
「そうよね」とヘレナは言った。否定しなかった。ただ「そうよね」と言った。「帰りたい場所があるのは、いいことよ」
その言葉の意味が、その時はよく分からなかった。
◇
礼拝堂に来る人たちの顔が、少しずつ覚えられるようになってきた。
骨折した指を治した靴職人。産後の貧血が続いていた母親。目の霞みを訴えていた書記官。慢性の頭痛を持つ調理人。
症状を治すだけでなく、少し話を聞いた。何があったか。家族はいるか。何の仕事をしているか。
治した後に、また来てくれた人がいた。症状のためではなく、「元気にしているか確認しに来た」と言って。
「聖女様がいてくれてよかった」と言われた。
聖女という言葉には、まだ慣れなかった。
エステルはただ手を当てているだけだ。特別なことは何もしていない。十四歳の秋に、マルクスの額に手を当てた時と、やっていることは変わらない。
でも、それが誰かの助けになるなら、続けよう。
帰れる日が来るまで、ここで続けよう。
そう思っていた。
その頃はまだ、帰れると信じていた。




