ヘスペル村
記録には、こう書かれている。
『聖魔力を持つ農民の娘エステル。衆人の前で魔力を暴走させ、王宮付属礼拝堂を半壊させた。反乱の意図は明白。即日裁判の上、翌朝処刑』
三百年間、それが歴史だった。
これは、そうではなかった方の話だ。
◇
エステルが初めて「おかしい」と思ったのは、十四歳の秋だった。
隣の家の子供が、熱病で床に伏していた。マルクスという七歳の男の子だった。三日目だった。
村に医者はいない。ヘスペル村は山の奥の小さな農村で、最寄りの街まで馬で二日かかる。病気になれば、薬草を煎じて飲み、神に祈り、それでも治らなければ死ぬ。それがこの村の当たり前だった。
マルクスの母親が泣き続けていた。
エステルは見舞いに行った。深い理由はなかった。差し入れの林檎を手に持って、当たり前のように隣の扉を叩いた。
部屋に入ると、息が詰まりそうな熱気があった。小さな炉が赤々と燃えている。マルクスはわら布団の上で、目を閉じたまま浅い息を繰り返していた。顔が赤い。額に手を当てるまでもなく、近くに立っているだけで熱が伝わってくる。
エステルはマルクスの傍に膝をついた。
このまま死ぬかもしれない。七歳が死ぬかもしれない。その事実が胸にのしかかった。何もできない、という感覚が。
だが気がつくと、手が動いていた。マルクスの額に、そっと当てていた。
温かいものが流れた。手のひらから。外へ向かって。
どこから来るのか分からなかった。ただ確かに、流れていた。
五分もしなかったと思う。
マルクスの呼吸が変わった。荒かった息が、深く、静かになった。額の熱が引いた。薄く目が開いた。
「……おなか、すいた」
小さな声だった。熱にうかされた声ではなく、普通の七歳の子の声だった。
母親が声を上げた。エステルの腕を掴んで泣いた。
翌朝、マルクスは起き上がって、林檎を食べた。
◇
「何をした」と父のハンスが聞いた。
「分からない」とエステルは答えた。
それが本当のことだった。何をしたかは分からない。ただ、手を当てていたら、温かいものが流れた。それだけだ。
父は長い間、黙っていた。炉の火を見ていた。
それから「目立つな」と言った。
「どうして」
「目立つ者は潰される。お前は女だ。力を持った女は、なおさら潰される」
父の言葉の意味を、エステルはその時まだ深く考えなかった。
父はいつも心配性だ。そう思っていた。
◇
ヘスペル村は南部の盆地にある小さな農村だった。
三十戸ほど。麦と豆と、秋には林檎。村の外れに川があって、春は雪解け水で少し増す。川魚が獲れる。子供たちはそこで遊んだ。
神官も医師もいない。病気になれば、死ぬ。それが長い間、当たり前だった。
エステルが変えた。
少しずつ、変えた。
マルクスの熱が治った話は村中に広まった。次に来たのは老人の腰痛だった。三十年来の痛みが、一度の施術で和らいだ。その次は子供の骨折。産後の出血が止まらない母親。長年の目の霞み。咳が続く初老の父親。
全員を治せるわけではなかった。力を使いすぎると、翌日は動けなかった。骨折は完全に治すのに三回かかった。出血は止めたが、しばらく安静が必要だった。
それでも何もできなかった村が、少しだけ死ななくなった。
「エステルねえさん」と子供たちが慕った。老人が手を合わせた。産後に助けてもらった母親は、秋に生まれた女の子に「エステル」と名付けた。
父だけが「目立つな」と繰り返した。
「でも、目の前で苦しんでいる人を放っておけない」
「お前の気持ちより、お前の命の方が大事だ」
「放っておいたら、わたしがつらい」
父は何も言わなかった。ため息をついた。また炉を見た。
父の言葉は正しかった。エステルはまだ理解していなかった。
◇
王宮からの使者が来たのは、エステルが十六歳の冬だった。
村に馬が二頭来ること自体、珍しかった。子供たちが走って見に行った。馬に乗った騎士は二人。腰に剣を帯びて、胸に王家の紋章が入った外套を羽織っていた。
村長が青ざめた顔で、ハンスの家を訪ねてきた。
「使者が来た。王宮からだ。エステル嬢を——名指しで」
文書を読んだ。父の手が少し震えているのが見えた。
「聖魔力の保有者と確認された。王都への出頭を命ずる。同封の日程に従い、王宮騎士団が迎えに来る」
使者は要件だけ伝えて、その日は去った。
エステルは文書を見た。難しい言葉が並んでいた。聖魔力。その言葉の意味は知っていた。数百年に一人と言われる、特別な力。治癒だけでなく、光と影を操れるという——詳しいことは誰も知らない。前例が少なすぎて。
自分がそれだとは、考えたことがなかった。
◇
その夜、父はエステルに言った。
「行くか行かないかは、お前が決めろ」
「行かなかったら」
「王命だ。拒否すれば、村ごと咎められる可能性がある」
エステルは少し考えた。長くはかからなかった。
「行く」
「なぜ」
「村を巻き込めない。それだけ」
父が何か言いかけた。言葉が来なかった。
代わりに、一度だけエステルの頭を撫でた。大きな手だった。農作業で固くなった、ごつごつした手だった。
父がそういう仕草をしたのは、エステルが七歳の頃に母が死んで以来だった。
エステルは何も言わなかった。父も何も言わなかった。
炉の火が揺れていた。
◇
出発の朝は曇っていた。
父は何も言わずに、荷物を門まで運んでくれた。
「すぐ帰るよ」とエステルは言った。
嘘ではなかった。信じていたから。
ヘスペル村の道を歩き出した。砂利道。踏み固められた土。十六年間歩いてきた道。
振り返ると、村の人たちが門のところに立って見送っていた。マルクスが手を振っていた。先日腰を診た老人も、杖をついて来ていた。産後に助けた母親が赤ん坊を抱いていた。
エステルは笑って手を振り返した。
父の顔は見なかった。見たら、泣いてしまいそうな気がした。
少し歩いて、一度だけ振り返った。
門の外に、父が立っていた。村人の中で一人だけ、何の表情も作らずに立っていた。
目が合った。
父は小さく頷いた。それだけだった。
エステルは前を向いて、歩き続けた。
それが最後だった。




