私を殺した世界を3歳から書き換えました
数年後。
◇
春の朝。
王宮の窓から、光が差し込んでいる。
ラベンダーの香り。窓辺の花瓶から。フリーデリケが届けてくれた今月の花。
毎月の花。長い年月、一度も途切れたことがない。
セレスティアは窓辺に立っていた。
二十一歳。
銀の髪。碧い目。王妃の冠は被っていない。朝はまだ、私服のままで。
窓の外に王都が広がっている。
朝の王都。屋根が朝日に光っている。煙突から煙が上がっている。通りを人が歩いている。
パン屋の匂いが風に乗って届く。
焼きたてのパンの匂い。いつも通り。
◇
背後で、小さな足音が聞こえた。
ぱたぱた。ぱたぱた。
素足の、短い足音。
「ままー」
振り返った。
小さな女の子が走ってきた。
銀色の髪。碧い目。セレスティアとそっくりの顔立ち。だが、笑顔だけはアレクシスに似ている。
リリア。
二歳。
母リリアーナから一文字もらった名前。
三歳の春、庭の白紫の花につけた名でもある。
「リリア。おはよう」
「おあよー!」
まだ上手く言えない。「おはよう」が「おあよー」になる。
セレスティアはしゃがんで、リリアを抱き上げた。
軽い。温かい。小さな手がセレスティアの首にしがみついた。
「ままー。おそと、きらきら」
「そうだね。お外、きらきらだね」
窓辺にリリアを抱いて立った。
「見て。これがあなたの国よ」
リリアは窓の外を見た。大きな碧い目で。
何も分からないだろう。二歳だから。王国も、政治も、歴史も。
でも、きらきら、は分かる。
朝日がきらきら光っていることは、分かる。
「きらきら!」
リリアが笑った。
両手を広げて。満面の笑みで。
セレスティアの目から涙が出た。
◇
「朝から泣いてるのか」
声が、後ろから。
アレクシスが寝室から出てきた。まだ寝間着。髪がぼさぼさ。王の威厳はどこにもない。
「泣いてない」
「泣いてるだろ。目が赤い」
「嬉しくて」
「知ってる」
アレクシスが隣に来た。
三人で窓辺に立った。
セレスティアがリリアを抱いて。アレクシスがその隣に。
「ぱぱー!」
リリアがアレクシスに手を伸ばした。
「おはよう、リリア」
「おあよー!」
アレクシスがリリアの頭を撫でた。銀色の髪を。
「この子、お前にそっくりだな」
「笑い方はあなたに似てる」
「そうか?」
「そうだよ。目を細めて笑うところ」
アレクシスがセレスティアを見た。
「お前は、幸せか」
「何、急に」
「聞きたくなった。朝から」
セレスティアはリリアを抱いたまま、アレクシスを見た。
「幸せだよ」
「そうか」
「あなたは?」
「——ああ。幸せだ」
二人で笑った。
リリアもつられて笑った。何が面白いのか分かっていないけれど。
◇
朝食。
テーブルに三人。
パンとチーズ。蜂蜜の紅茶。果物。
ナターシャが紅茶を淹れてくれた。
「陛下。蜂蜜は通常量でよろしいですか」
「通常量で」
「涙の追加分は?」
「今日は大丈夫。もう泣き止んだ」
「承知いたしました。念のため、〇・二さじだけ追加しておきます」
「念のため」
飲んだ。甘かった。いつもの。長年、変わらず傍にあった味。
リリアがパンをかじっていた。小さな手で。小さな口で。
丸いパン。フリーデリケが毎月送ってくれるパン。
ハート型だったはずだが、リリアの手で握られて原形をとどめていない。
「リリア。おいしい?」
「おいしー!」
「よかった」
◇
朝食の後。
セレスティアは執務室に向かった。
廊下を歩く。ヴォルフはもういない。前線を退いた。
代わりにカタリナが三歩後ろを歩いている。ヴァイスハウプト家出身の、長くヴォルフと連携してきた女性騎士。
「カタリナ」
「はい、陛下」
「ヴォルフは元気?」
「先日お会いしました。お元気です。後進の指導に当たっています」
「そう。よかった」
扉の前に、もう、あの寡黙な騎士はいない。
でも遠くから、見守ってくれている。
◇
執務室。
机の上に手紙が積まれていた。
フリーデリケから。毎月の手紙。
『セレスティアさま。
リリアちゃんに会いたいです。絵姿を描いて送ってください。いえ、絵姿より本物がいいです。今度連れてきてください。石段に。
ラベンダー、新品種が完成しました。「リリア品種」です。小さくて、かわいくて、いい匂い。リリアちゃんにそっくりです。
フリーデリケより。
追伸。パン焼きました。リリアちゃん用に小さいの。ハート型。歪んでません。二回目の完璧。
追追伸。次からはまた歪ませます。』
セレスティアは笑った。
リディアから。南方から。
『セレスティアへ。
祖国の復興は順調です。嘘じゃありません。
リリアちゃんの名付け親にしてくれなかったことを、まだ根に持っています。嘘です。持っていません。少しだけ持っています。
南方の諺を一つ。「子は親を越える」。
これは本当の諺です。リリアちゃんはきっと、あなたを越えます。あなたが前世の自分を越えたように。
リディアより。
追伸。ラベンダーの鉢植え、こちらでも咲きました。小さいですが。南方のラベンダー。友情の花です。』
コンラートから。
『セレスティアへ。いや、陛下へ。
騎士団は順調だ。報告は以上。
リリアに会った。かわいい子だ。お前に似ている。だがアレクシスの笑い方だ。
剣は教えるな。早すぎる。もう少し大きくなってからだ。
コンラートより。
追伸。パンを送る。干し肉入り。リリアにはまだ早いか。お前が食え。』
セレスティアは全ての手紙を読んだ。
一通ずつ。丁寧に。
みんな元気だ。みんなそれぞれの場所で、生きている。
◇
窓を開けた。
春の風が入ってきた。
王都の広場に噴水が見える。遠くに。白い水しぶき。
三年前に完成した噴水。処刑台があった場所に。
ラベンダーの花壇が紫に色づいている。フリーデリケの四季咲きラベンダー。
子供たちが噴水の周りを走っている。笑い声が風に乗って聞こえる。
銘板がある。噴水の台座に。
『この広場で かつて命が奪われた。この噴水で 今 命が潤される。水は流れ 花は咲き 子供は笑う。それが この国の答え』
◇
セレスティアは窓辺に立って、心の中で呟いた。
あなたが願ったやり直しは、叶った。
ありがとう。さようなら。おやすみなさい。
◇
窓の外に朝日が昇っていた。
春の朝日。金色の光。
ラベンダーの香りが風に乗って、王宮中に広がっていく。
フリーデリケのラベンダー。毎月届く花。長い年月、途切れたことのない花。
セレスティアは微笑んだ。
涙はもう出なかった。
代わりに穏やかな温かさが、胸の中に満ちていた。
◇
背後で、また、小さな足音が聞こえた。
ぱたぱた。ぱたぱた。
「ままー!」
リリアが走ってきた。
セレスティアはしゃがんで、両手を広げた。
リリアが飛び込んできた。
抱きしめた。
小さくて。温かくて。ラベンダーの匂いがする体。
「ままー。おそと、いく?」
「行こうか。お外、きらきらだよ」
「きらきら!」
リリアを抱いて窓辺に立った。
朝日が二人を照らした。
ラベンダーの香りが風に乗って。
新しい世界の新しい朝。
いつも通りの温かい朝。
私を殺した世界を——三歳から書き換えました。
——了




