閑話 平民侍女は振り返る
王妃戴冠から間もない朝。
わたくしが公爵家に来た日のことを、今でも覚えている。
十二歳だった。
貧しい農家の三女で、読み書きもまともにできなかった。「貴族の屋敷で働ける」と聞いて来たけれど、本当は怖くて怖くて、足が震えていた。
公爵邸は——巨大だった。門だけで、村の教会よりも大きかった。
案内された使用人の部屋は——わたくしが家族七人で暮らした家よりも広かった。
場違いだと——思った。
他の侍女たちは、わたくしを見下した。
「平民のくせに」「田舎者」「匂いがする」「字も読めないの?」
毎日泣いた。洗濯場の裏で。誰にも見られないように。
辞めたいと思った。何度も。
でも——辞められなかった。辞めたら——家族が飢える。わたくしの稼ぎが、弟たちの食事だった。
三ヶ月。——泣きながら働いた。
洗濯場で泣きながら、故郷を思った。田んぼの匂い。母の声。弟たちの笑顔。貴族の屋敷と故郷は、何もかもが違う。言葉が違う。歩き方が違う。食事の出し方が違う。間違えるたびに叱られた。
でも——弟たちの顔を思い出すたびに、手を止められなかった。
◇
お嬢様に会ったのは——その三ヶ月目だった。
マルガレーテに言われた。「お嬢様のお部屋に、お茶を持っていきなさい」
震えた。——公爵家のお嬢様。三歳の。聖魔力の持ち主。
怖かった。貴族の子供は——平民をどう見るのだろう。他の侍女と同じように見下すのだろうか。
お盆にお茶を載せて。部屋の扉を叩いた。
「どうぞ」
小さな声。三歳の声。
扉を開けた。
お嬢様は——床に座って、絵本を読んでいた。
わたくしを見上げた。
大きな碧い目。銀色の髪。小さな顔。
三歳。——だけど、目が違った。三歳の子供の目ではなかった。
何かを知っている目。何かを——背負っている目。
「おちゃ、ありがとう」
小さな声で言った。
「は、はい。——お嬢様」
お茶を置いた。手が震えて——少しだけ零してしまった。
「あっ——す、すみません——」
慌てて拭こうとした。だが
「だいじょうぶ。——こぼしても、だいじょうぶ」
お嬢様が——微笑んだ。
三歳の笑顔。だけど——大人のような温かさがあった。
「ナターシャ——っていうの?」
「は、はい。——ナターシャと申します」
「ナターシャ。いっしょにあそぼ」
「あ、遊ぶ——。わたくし、お仕事が——」
「おしごとのあと。——いっしょにあそぼ。えほんよむの」
お嬢様が——手を伸ばした。
小さな手。三歳の手。
わたくしの手を——握った。
温かかった。
あの温もりを——わたくしは一生忘れない。
◇
それから——十五年。
わたくしはお嬢様の目と耳になった。
読み書きを覚えた。お嬢様が教えてくれた。三歳のお嬢様が、十二歳のわたくしに。
計算を覚えた。ヘルマンが教えてくれた。
情報の集め方を覚えた。ニコラスが教えてくれた。
暗号文の書き方を覚えた。自分で編み出した。
王都の使用人ネットワークを動かし、情報を集め、暗号文を運び、敵の動きを監視した。
拉致されかけたこともある。宰相派の手の者に。ヴォルフが助けてくれた。
怪我もした。逃げる時に塀から落ちて、足首を捻った。アネリーゼ嬢が治してくれた。
怖い思いもした。何度も。
でも——辞めたいとは思わなかった。一度も。
あの日——三歳のお嬢様が手を握ってくれた日から。一度も。
◇
周りの人は言う。
「平民の侍女が国の情報局に? 異例だ」
「お嬢様の引きで出世しただけだ」
そうかもしれない。
お嬢様がいなければ、わたくしはまだ田舎で泥まみれだっただろう。字も読めず、世界を知らず、畑を耕して——それだけの人生だっただろう。
でも——わたくしは胸を張って言える。
お嬢様の信頼に応えるために——自分で走った。自分で学んだ。自分で強くなった。
お嬢様はきっかけをくれただけ。
走ったのは——わたくしの足だ。
村の農家の娘が、字を覚えた。暗号を覚えた。情報網を作った。貴族でもなく、魔力もなく、財力もない。でも——動ける足がある。考える頭がある。それだけで、十五年走ってきた。
◇
お嬢様は——秘密を抱えている。
十五年——見てきた。分かっている。
三歳の頃から——何かを知っていた。何かを——怖がっていた。毎年春になると具合が悪くなる。処刑される夢を見ると言った。
前世——という言葉を、時々漏らす。無意識に。
わたくしは聞かない。——聞く必要がない。
お嬢様が何を背負っていても——わたくしの仕事は変わらない。
紅茶を淹れること。情報を集めること。お嬢様の傍にいること。
それだけ。
最初の日から——ずっと。
◇
昨夜。
お嬢様が——手紙を書いていた。
宛先のない手紙。
長い時間——書いていた。一晩中。
わたくしは——暖炉に火を入れておいた。春なのに。
理由は——分からない。でも——火が必要な気がした。十五年の勘が。
朝。——お嬢様の部屋に入った。
暖炉に——灰があった。白い灰。便箋の。
手紙を——燃やしたのだ。
お嬢様の顔を見た。泣いた跡があった。でも——目は澄んでいた。
前より——軽くなった目。何か重いものを——下ろした後の目。
十五年——あの目を見てきた。この朝の目が——一番軽かった。
何を書いたのかは聞かない。
でもお嬢様の横顔は——泣いているようで、笑っているようだった。
わたくしは黙って紅茶を淹れた。蜂蜜入り。いつも通り。
「おいしい」
お嬢様が言った。
「いつも通りです」
わたくしが答えた。
それだけ。
◇
わたくしの人生は——お嬢様と共にある。
十二歳の田舎娘が。字も読めなかった少女が。
今は——王宮情報局長。平民として最高位。
お嬢様がくれた機会。お嬢様が開いた道。
でも——歩いたのはわたくし。
これからも——歩く。お嬢様の半歩後ろで。
紅茶を持って。情報を持って。蜂蜜を多めに入れて。
いつも通り。




