おやすみなさい、前世の私
さらに、時間は戻る。
王妃戴冠から間もない夜。
王宮の寝室。
アレクシスはもう眠っている。規則正しい寝息。
セレスティアはそっと起き上がった。
窓辺の机に座った。
蝋燭を一本、灯した。
小さな炎。揺れる光。
◇
机の引き出しから日記帳を取り出した。
フェリクスがくれた日記帳。十六歳の誕生日に。
「感情を書け。事実ではなく。感情を」
フェリクスの言葉。
この日記帳に書き続けた。二年間。
暗号ではなく。普通の言葉で。自分の感情を。
怖かった日。嬉しかった日。泣いた日。笑った日。
全部、ここにある。
最後まで、あと数ページ残っていた。
だが今夜書くのは、日記ではない。
日記帳を閉じて、机に置いた。
代わりに便箋を出した。二年前と同じ、飾りのない白い紙。
◇
羽根ペンを持った。
インクに浸した。
書き始めた。
暗号ではなく。普通の言葉で。
◇
『十八歳の私へ。
いいえ。前世の私へ。
あなたに手紙を書きます。
もう一度。最後に。
前に一度、手紙を書きました。十六歳の時。暖炉で燃やしました。
あの手紙は、怒りと決意の手紙でした。「あなたが死んだ世界はもう存在しない。わたしが書き換えたから」と。
今回の手紙は違います。
今回は、感謝の手紙です。』
◇
ペンが進んだ。
蝋燭の光の中で。静かに。
『あなたは怖かったでしょう。
十八歳。断頭台の上。青い空。斧の光。
群衆が罵声を浴びせる中で。誰も味方がいない中で。
冤罪だと叫ぶ声も枯れて。
最後に何を思ったのでしょう。
わたしには分かりません。前世の最後の瞬間の記憶はありません。闇だけ。冷たい闇だけ。
でも、怖かったはず。
孤独だったはず。
誰にも信じてもらえなかったはず。
あなたの恐怖を、わたしは知っています。三歳で目覚めた朝。あなたの記憶が洪水のように押し寄せた時。あの恐怖を今でも覚えています。
体が震えて。息ができなくて。声が出なくて。
三歳の体で、十八歳の恐怖を受け止めた。
あの朝が全ての始まりでした。』
◇
ペンを一度、置いた。
蝋燭の炎が揺れた。
窓の外に月が出ていた。春の薄い月。
アレクシスの寝息が聞こえる。穏やかな音。
ペンをもう一度、持った。
『わたしはあなたの恐怖で動きました。
あなたの怒りで戦いました。
あなたの悲しみで人を愛しました。
あなたの孤独が、わたしに仲間を求めさせました。
あなたの絶望が、わたしに希望を掴ませました。
あなたがいなければ、わたしはここにいない。
母を守ろうとは思わなかった。
フェリクスを導こうとは思わなかった。
ディートリヒの陰謀を暴こうとは思わなかった。
アレクシスに手を伸ばそうとは思わなかった。
石段でパンを食べようとは思わなかった。
フリーデリケに「いいよ」と言おうとは思わなかった。
全部、あなたのおかげです。
あなたが死んだから。あなたが苦しんだから。あなたが恐怖の中で何かを願ったから。
わたしは生まれた。
あなたの願いとして。あなたのやり直しとして。』
◇
涙が落ちた。
紙の上に。インクが少し滲んだ。
拭かなかった。そのまま。涙の跡も、この手紙の一部だから。
『だから、ありがとう。
あなたの死は無駄じゃなかった。
あなたの苦しみは意味があった。
あなたが恐怖の中で流した涙の一滴一滴が、今世のわたしの力になった。
あなたが断頭台の上で最後に見た青い空を、わたしは今、窓から見ています。
同じ空です。同じ色です。
でも、全てが違います。
空の下に処刑台はもうありません。
空の下に噴水ができます。ラベンダーの花壇ができます。子供たちが走り回ります。
あなたが死んだ場所で、命が潤されます。
それがこの世界の答えです。
わたしたちの答えです。』
◇
最後の段落。
ペンが震えた。
でも、書いた。
『前世の私。
もう休んでいいよ。
もう怖がらなくていい。
もう一人じゃない。
わたしにはみんながいる。
母がいる。父がいる。おにいさまたちがいる。
アレクシスがいる。ナターシャがいる。ヴォルフがいる。
フリーデリケがいる。リディアがいる。アネリーゼがいる。
ヴィオレッタがいる。イザベラがいる。コンラートがいる。
マルガレーテがいる。ヘルマンがいる。
みんないる。
わたしは大丈夫。
だから、もう、休んで。
十五年間、わたしの中で戦い続けてくれて、ありがとう。
あなたの恐怖が、わたしを強くしてくれた。
あなたの悲しみが、わたしを優しくしてくれた。
あなたの怒りが、わたしを動かしてくれた。
もう全部、終わったよ。
おやすみなさい。
前世の私。
ゆっくり眠って。
次に目覚める時は、もう、怖いものは何もないから。
おやすみなさい。』
◇
ペンを置いた。
便箋を折った。二つに。
蝋燭の炎が揺れている。
暖炉を見た。
十六歳の時。前の手紙は暖炉で燃やした。灰になるまで。
今回も——燃やした。
手紙を持って、暖炉の前に立った。
炎に入れた。
紙の端から、白い灰になって。
消えた。
日記帳は、引き出しに戻した。鍵をかけなかった。
燃やしたのは手紙だけだ。あとは残しておく。
◇
蝋燭を吹き消した。
暗くなった。
月明かりだけが窓から差し込んでいる。
ベッドに戻った。
アレクシスの隣に。
温かかった。
目を閉じた。
「おやすみなさい、前世の私」
呟いた。
◇
セレスティアは眠った。
穏やかに。静かに。
夢は見なかった。
代わりに見たのは、ラベンダー畑だった。誰かが隣にいた。
処刑の夢はもう、来なかった。




