ヴォルフの一言
春の終わり。
夏の気配がわずかに、風の中にある。
ヴォルフがセレスティアの執務室を訪ねた。
いつもは扉の前にいる。扉の外に。中には入らない。
それが今日は、中に入ってきた。
「ヴォルフ。珍しいね。中に入るなんて」
セレスティアは蜂蜜の紅茶を飲みかけの状態で、顔を上げた。
ヴォルフは扉を閉めた。静かに。
直立。無表情。いつも通り。
だが何かが違った。
空気が違った。
「どうしたの」
「……陛下。お話があります」
ヴォルフが口を開いた。
それだけでセレスティアは、何かを察した。
ヴォルフが「お話があります」と自分から言うことは滅多にない。十五年間で片手で数えるほどしかない。
◇
ヴォルフはセレスティアの前に立った。
椅子を勧めたが、座らなかった。立ったまま。
「……陛下」
「うん」
「……前線任務から、退こうと思います」
セレスティアの手が紅茶の杯の上で止まった。
「退く?」
「引退ではありません。監督の立場に移る、ということです」
「……」
「後進が育っています。わたくしが扉の前に立つ必要は薄くなりました」
でもセレスティアには聞こえた。
その声の奥にあるかすかな、震え。
◇
セレスティアは紅茶を置いた。
立ち上がった。
ヴォルフの前に立った。
「ヴォルフ」
「……はい」
「長い戦いだったね」
ヴォルフの目がわずかに揺れた。
「……陛下」
「ん?」
「……長い、戦いでした」
ヴォルフが言った。
自分から。自分の言葉で。
セレスティアは息を呑んだ。
そしてまだ続いた。
「……わたくしが、お嬢様のもとに来たのは三歳の時でした」
「うん。覚えている」
「扉の前に立ちました。それが、わたくしの仕事でした」
「うん」
「誰も通さない。何も通さない。それだけが、わたくしにできることでした」
「……」
「お嬢様は戦い続けました。三歳から。わたくしが来る前から。一人で」
セレスティアの目が熱くなった。
「わたくしにはお嬢様の戦いを理解することはできませんでした。政治も。法も。改革も。わたくしは、剣しか持たない人間です」
「ヴォルフ」
「でも、扉の前に立つことはできた。お嬢様が安心して眠れるように。お嬢様が安心して泣けるように。扉の前に、立つことだけは」
ヴォルフの声がかすかに、震えた。
「……それだけしかできませんでした」
セレスティアは首を振った。
強く。何度も。
「違う。ヴォルフ。それが全部だった」
「……全部」
「あなたがいなかったら、わたしは生きていない。文字通り。何度も命を狙われた。何度も危険があった。その全部をあなたが、扉の前で止めてくれた」
「……」
「扉の前に誰かがいるということが、どれだけ心強いか。あなたにはわからないかもしれないけど」
「記憶が戻ってから、わたしは一人で戦っていた。誰にも言えない秘密を抱えて。でも三歳の時にあなたが来て。扉の前に立ってくれて」
涙がこぼれた。
「扉の向こうまで、怖がらずに眠れるようになった。扉の前にあなたがいるって、分かっていたから」
「……お嬢様」
「扉の前に誰かがいる。それが、すべてだった。わたしにとって」
ヴォルフは黙った。
長い沈黙。
窓の外で風が吹いた。春の匂いを運ぶ風。かすかに、花の気配がある風。
「……陛下」
「ヴォルフ」
「……お仕えできて、光栄でした」
◇
ヴォルフが笑った。
口元だけではない。目も。頬も。顔全体が。
セレスティアは息を止めた。この顔を、目に刻んだ。
顔全体で笑う姿を見たのは、十五年間で初めてだった。
◇
セレスティアは泣いた。
声を上げて。隠さずに。
「ヴォルフ。ずるい。最後に笑うなんて」
「……最後ではありません。監督の立場で引き続き」
「でも、扉の前には、もう」
「護衛体制は引き継げます。ともに鍛え、背中を預けてきた者です。信頼できます」
「あなたじゃなきゃ」
「……わたくしでなくても扉は守れます。もう、この国は、一人の騎士に頼る必要はない」
セレスティアは涙を拭おうとした。
袖で。
だが、ヴォルフが。
懐からハンカチを出した。
白い。清潔な。折り目のついた。いつものハンカチ。
「……どうぞ」
差し出した。
セレスティアは受け取った。
十五年間、何度も差し出されたハンカチ。泣くたびに。苦しむたびに。
いつも、ヴォルフのハンカチが、そこにあった。
「これ、最後のハンカチ?」
「……いいえ。予備は常に三枚。今後もお届けします」
「届けなくていい。自分で用意する」
「……では。万が一の時のために、一枚だけ。いつも」
セレスティアはハンカチで涙を拭いた。
ラベンダーの香りがした。
「ヴォルフ。このハンカチ、ラベンダーの香りがする」
「……洗濯の際に。ラベンダー水を使っております」
「なぜ、ラベンダー?」
「……お嬢様がお好きだと。伺いましたので」
「誰から」
「……フリーデリケ殿から」
いつから。それだけが、頭の中を一度、通り過ぎた。
セレスティアは泣き笑いの顔で、ハンカチを握りしめた。
◇
ヴォルフが一歩、下がった。
姿勢を正した。
右手を胸に当てた。騎士の礼。
「陛下。長きにわたるご奉公、ありがとうございました」
「こちらこそ。ヴォルフ。十五年間、ありがとう」
「……」
「あなたがいたから、わたしはここにいる。王妃として。生きている人間として」
ヴォルフはもう一度、笑った。
今度は小さく。いつもの。口元だけの。
でも、目が、温かかった。
「……扉は、いつでも、お守りします。たとえ前線を退いても」
「知ってる。あなたはそういう人だから」
ヴォルフが踵を返した。
扉に向かって歩いた。
扉を開けた。
そして、振り返らずに。
「……走った後は、帰ってまいります」
扉が閉まった。
セレスティアは椅子に座ったまま、閉じた扉を見つめた。
◇
ハンカチを膝の上に置いた。
白い布。ラベンダーの香り。
扉の向こうに、もうヴォルフの気配はない。
いや、遠くに、ある。廊下の奥に。見えない場所に。
いなくなったわけではない。ただ、位置が変わっただけ。
扉の前から、少し後ろへ。
蜂蜜の紅茶を一口飲んだ。
冷めていた。でも、甘かった。
窓の外に、春の風が吹いていた。




