ラベンダーの丘
春。
王都を離れた。
馬車で、ナターシャと一緒に。
ヴォルフが後ろを護衛している。
◇
歩けば三時間の道を、馬車で一時間半。
街道を南へ。川を渡って。丘の道へ。
馬車が丘の上へ向かう坂道に差し掛かった時。
窓の外が、紫になった。
◇
セレスティアは思わず立ち上がった。
窓から外を見た。
丘の斜面が、全部紫だった。
ラベンダー。
見渡す限りの、ラベンダー畑。
「ナターシャ」
「はい」
「これが」
「はい。フリーデリケさんの農園です」
◇
馬車が止まった。
農道の入り口。
扉が開く前に、声がした。
「セレスティアさまーっ!」
勢いよく入ってきた。
フリーデリケが。麦わら帽子をかぶって。土で汚れた手袋をして。
「来てくれた! 本当に来てくれた!」
「来るって言ったじゃない」
「でも本当に来るとは思っていなくて。王妃様が、本当に、ここに」
「友達の家に来ることの何がおかしいの」
フリーデリケが泣きそうな顔になった。
「友達」
「そうでしょう。石段からずっと」
フリーデリケが麦わら帽子を押さえて、笑った。泣きながら。
◇
歩いた。
フリーデリケの隣を。
ラベンダー畑の中を。
風が吹いた。
香りが来た。
あの香り。枕の下の香り袋の。毎月届く花束の。
ずっと知っていた香り。初めて来た場所なのに。
「フリーデリケ」
「はい」
「全部、あなたが育てたの?」
「はい! 最初は半分枯れました。二年目は半分咲いて、三年目に全部咲いたんです」
「三年」
「諦めませんでした。だって諦めたら」
「諦めたら?」
「セレスティアさまに花を送れなくなるから」
◇
丘の頂上まで歩いた。
頂上から見渡した。
紫の海だった。
丘の全部が紫だった。
風が吹くと波のように揺れた。
「きれい」
「本当ですか! 嬉しいです!」
「本当。こんなにきれいとは思わなかった」
「毎年、もっと増やしています。新しい品種も研究しています。四季咲きの、一年中咲くラベンダー」
「四季咲き」
「まだ試験段階ですけれど。できたら、中央広場の花壇に植えたいんです。噴水のラベンダー花壇に、一年中咲いていたら、いいと思って」
「いいね。絶対にいい」
フリーデリケがまた泣きそうな顔になった。
「セレスティアさまにそう言ってもらえると、頑張れます」
◇
丘の斜面に座った。
三人で。セレスティアとフリーデリケとナターシャ。
フリーデリケがパンを取り出した。
「焼いてきました。一応」
「歪んでる」
「仕方ないです。ハート型にしたんですけど、いつも歪みます。何年経っても」
「なぜ歪むの」
「分かりません。型を使っても歪みます。セレスティアさまが来ると聞いて、今日は特に頑張ったのに、今日が一番歪みました」
ナターシャが真顔で言った。
「期待が高まると失敗します。フリーデリケさんの場合、特にそのようです」
「……そこまで見ていたんですか」
「見ています」
セレスティアは笑った。
声を出して笑った。
◇
パンをかじった。
柔らかかった。
歪んでいるが、味はいい。
「おいしい」
「本当ですか!」
「本当。毎月送ってくれるパン、ずっとおいしかった」
「嬉しいです。歪んでいても」
「歪んでいてもいい。これはフリーデリケのパンだから」
フリーデリケの目が潤んだ。
「蜂蜜、持ってきました」
「かけてくれる?」
「はいっ!」
◇
蜂蜜をかけたパンを食べた。
ラベンダーの中で。
風が吹いていた。
香りが来た。
セレスティアは目を閉じた。
学園の頃を思い出した。
初めてフリーデリケがくれた香り袋を枕の下に入れた夜。
あの夜、ラベンダーの香りがして、少しだけ眠れた。
怖い夢を見なかった。
「フリーデリケ」
「はい」
「ずっと花を届けてくれて、ありがとう」
「ありがとうと言う方がおかしいです。わたしが届けたかったんだから」
「でも、ありがとう。一度、ちゃんと言いたかった」
フリーデリケが口を結んだ。
「……どういたしまして」
しばらくして、付け加えた。
「これからも届けます。ずっと」
「ずっとは長いよ」
「長くてもいいです。来月も、再来月も、五年後も、十年後も」
「フリーデリケ」
「はい」
「長生きしてね」
フリーデリケが笑った。
「セレスティアさまこそ」
◇
夕方になった。
帰る時間。
フリーデリケがラベンダーを摘んでくれた。
大きな束。
「今月の分です。早めに」
「重い」
「久しぶりだから多めに」
「来月はいつも通りでいい」
「はい。いつも通りで」
馬車に乗った。
窓から手を振った。
フリーデリケが手を振り返した。麦わら帽子が風で飛んだ。慌てて追いかけた。
馬車が動き始めた。
ラベンダー畑が遠ざかった。
◇
ナターシャが魔法瓶から紅茶を出した。
「フリーデリケさんが蜂蜜を持たせてくれました。セレスティア様の紅茶に、と」
「その蜂蜜を?」
「はい」
飲んだ。
蜂蜜入りの紅茶。いつも通りの味。
でも少し違う気がした。
「おいしい」
「いつも通りです」
「フリーデリケの農園の、ラベンダーの香りが残っているから違う気がする」
「気のせいかもしれません」
「気のせいかもしれない。でもそんな気がする」
◇
窓の外に夕日が落ちていた。
赤い空。
ラベンダー畑は、もう見えなかった。
でも香りがした。
服に残った、ラベンダーの香り。
来月もまた、花が届く。
毎月届く。
長く、途切れたことのない花。




