フェリクスの仮説
冬の夜。
フェリクスが王宮を訪ねてきた。
珍しいことだった。フェリクスは普段、研究室に籠もっている。用事がなければ王宮には来ない。用事があっても書簡で済ませることが多い。
それが、直接来た。
「セレスティア。少し、話がしたい」
執務室の扉の前で、フェリクスは言った。
眼鏡の奥の目が、いつもより真剣だった。
「どうぞ。入って、にいさま」
ヴォルフに目配せした。ヴォルフは頷いて、扉の外に出た。
二人きりになった。
◇
蜂蜜の紅茶を二杯、ナターシャに頼まず、セレスティアが自分で用意した。
フェリクスは椅子に座って、紅茶を受け取った。
しばらく黙っていた。
紅茶の湯気を見つめている。
「にいさま。何の話?」
「……」
「研究のこと? 霊脈の?」
「違う。個人的な話だ」
フェリクスが紅茶を一口飲んだ。
そして言った。
「セレス。兄として一つ聞いていいか」
「もちろん」
「お前は、前の人生の記憶があるだろう」
◇
空気が止まった。
セレスティアの手が紅茶の杯の上で、固まった。
「何を」
「仮説だ。ずっと、仮説を持っていた」
フェリクスの目がセレスティアを見た。
「三歳の時、お前は変わった。突然に。一晩で」
「……」
「三歳の子供が薬草の名前を知っていた。家臣ディートリヒの部屋に僕を導いた。毒の存在を予測していた」
セレスティアは何も言えなかった。
フェリクスは続けた。
「最初は天才なのかと思った。並外れた知性を持った子供。それが最も単純な説明だった」
「……」
「だが違った。天才では説明できないことが多すぎた」
フェリクスが指を立てた。
「第一に、お前は未来を知っていた。家臣ディートリヒの陰謀。王都の薬材規格偽装。母上の毒殺計画。三歳の子供が、推理だけでそこに辿り着くのは不可能だ」
「……」
「第二に、お前は人間関係を操作できた。五歳で、まだ王太子だった陛下に接近した。偶然ではない。お前は陛下が孤独だと知っていた」
心臓が鳴った。とくん。
「第三に、お前は感情が矛盾していた。三歳の子供のように笑いながら、目だけが、大人だった。あの目は何かを失った人間の目だ。何かを知っている人間の目だ」
「にいさま」
「学者として、最も単純な説明を求めるなら」
フェリクスが眼鏡を押し上げた。
「お前は未来を知っていた。それが最もシンプルな仮説だ。そして、未来を知る方法として最も合理的なのは、一度その未来を経験していること」
フェリクスは答えを急がず、しばらく沈黙した。
「つまり、前世の記憶。お前は一度死んで、もう一度この世界に生まれた。記憶を持ったまま。それが、僕の仮説だ」
◇
セレスティアの目から涙が溢れた。
止められなかった。
「知っていたの」
声が震えた。
「いつから」
「三歳の時から。薬草の名前を聞いた瞬間から」
「十五年。十五年も」
「ああ。十五年間、僕は仮説を持っていた」
「なぜ聞かなかったの」
フェリクスは紅茶の杯を見つめた。
「聞けば、お前は壊れると思った」
「壊れる?」
「三歳のお前は必死だった。母上を守るために。家族を守るために。全部を一人で抱えて。誰にも言えずに」
「……」
「そこに僕が『前世の記憶があるのだろう』と問い詰めたら。お前はどうなっていた」
セレスティアは目を閉じた。
三歳の自分を思い出した。
恐怖。孤独。焦り。前世の記憶に押しつぶされそうだった、あの頃。
もしあの時、フェリクスに問い詰められていたら。
「壊れていた。たぶん」
「だろう。だから聞かなかった」
「でも、知っていたなら。助けを求められたのに。もっと早く」
「お前は助けを求めない。知っているだろう、自分のことを」
「……」
「お前は全部一人で抱えようとする」
フェリクスが立ち上がった。
窓辺に歩いて外を見た。
雪が降っていた。
「兄の仕事は問い詰めることじゃない」
「え?」
「兄の仕事はそばにいることだ。妹が泣いた時に。妹が苦しんでいる時に。問い詰めるのではなく、ただ、そばにいること」
振り返った。
フェリクスの目が潤んでいた。
眼鏡の奥で光っていた。
「だから僕は十五年間、そばにいた。問わずに。気づかない振りをして。お前が自分で話す時を待っていた」
「にいさま」
「母上に話したのだろう。婚礼の前夜に」
「知って、いるの。それも」
「母上の目を見ればわかる。あれは秘密を共有した人間の目だ」
セレスティアは泣いた。
声を上げて泣いた。
「ずるい。にいさまは、ずるい」
「何がずるいんだ」
「全部知っていて。何も言わないで。ずっとそばにいて」
「それが兄だ。ずるくて当然だ」
「湿度が高いって。いつも湿度が高いって」
「ああ。湿度が高かった。お前の周りは、いつも」
フェリクスがセレスティアの前に戻った。
椅子に座って紅茶の杯を持った。
「泣くな。湿度が上がる」
「上がってる。もう上がってる」
「困ったな。研究資料が劣化する」
「劣化。にいさまの研究資料はここにはないでしょう」
「いや、ある。お前が僕の研究資料だ。十五年間の、最も重要な」
セレスティアは泣きながら笑った。
ぐしゃぐしゃの顔で。
「にいさま。ありがとう」
「何に対して」
「十五年間、そばにいてくれて」
「当たり前だ。兄だから」
フェリクスが紅茶を飲んだ。
冷めた紅茶を。
何も言わずに。
◇
しばらく泣いた。
泣き終わった後、二人で、冷めた紅茶を飲んだ。
「にいさま」
「何だ」
「この仮説、誰かに話した?」
「誰にも。学者は、検証されていない仮説を公表しない」
「今は検証されたの?」
「ああ。本人が泣いて認めた。これ以上の検証はない」
セレスティアは笑った。
フェリクスも口元を緩めた。
「セレスティア」
「何」
「お前の仮説も聞いていいか」
「わたしの仮説?」
「ああ。なぜ、記憶を持って生まれ変わったのか。その仮説」
セレスティアは考えた。
三歳の朝。目覚めた時。前世の記憶が洪水のように押し寄せた、あの瞬間。
なぜ生まれ変わったのか。
「わからない。今でも」
「わからない、か」
「でも、理由がなくても。意味はあった」
「意味」
「みんなに会えた。もう一度。今度は失わずに」
フェリクスは頷いた。
「それはいい仮説だ」
「学者として?」
「兄として」
窓の外の雪が少しだけ弱まった。
フェリクスが立ち上がった。
「帰る。研究室の湿度が心配だ」
「湿度。最後まで湿度なんだ」
「湿度は重要だ。あらゆる場面で」
扉に向かって歩いた。
扉の前で振り返った。
「セレスティア」
「何?」
「十五年間。よく、頑張った」
それだけ言って出ていった。
扉が閉まった。
セレスティアは空になった紅茶の杯を見つめた。
湿度が高いと言いながら。
「ありがとう、にいさま」
誰もいない執務室で呟いた。
窓の外で雪が、静かに降っていた。




