叔母として、パンを持って
パンを買った。
王宮の調理場ではなく、王都の市場で。ヴォルフに護衛されながら、市場の石畳を歩いて、パン屋の前に立った。
「あの、一番大きいもの」
「まいど。王妃様が直接いらっしゃるとは」
パン屋の主人がぽかんとした顔をした。
「一歳の子供に、どれが向きますか」
「まだ歯が揃ってないなら、柔らかいミルクパンをどうぞ。こちらです」
ミルクパンをふたつ。蜂蜜入りのロールをひとつ。それから、家族三人分の夕食用になりそうな大きなパンを。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。お子さんによろしく」
王妃が甥のためにパンを買いに来たとは、誰も思わないだろう。
◇
王都別邸の門が見えた。
門番が馬車を認めて急いで門を開けた。
玄関先にエドヴァルトが出てきた。
鎧ではなかった。厚い外套。目が細くなっている。笑っているのか、眩しいのか。たぶん両方。
「来たか」
「来た。パンも持ってきた」
「見える。随分と多いな」
「一歳の子の好みが分からなかったから、いろいろ」
「ミルクパンを好む。あと蜂蜜入り。果物も好きだが、今は歯が生えかけだ」
「そんなに詳しいの」
「父親だ。当然だ」
◇
屋敷の中は温かかった。
暖炉の前で、エドヴァルトの妻が立っていた。
ベアトリクス。黒髪の、穏やかな人。エドヴァルトとは四年前に婚礼を挙げた。辺境伯の姪で、弓術に秀で、ものごとを静かに見る目をしている。兄に似た目だとセレスティアは思う。
「王妃様、ようこそ。お運びくださりありがとうございます」
「こちらこそ。急に押しかけてすみません。レオンハルトは?」
「今、目が覚めたところです」
奥の扉が開いた。
エドヴァルトが大きな手で、小さな子供を抱えて出てきた。
◇
レオンハルトは一歳だった。
丸い顔。母親譲りの黒い髪。エドヴァルトにそっくりの眉。だが目は違う。母親のベアトリクスに似て、穏やかな色。
セレスティアを見て、目を丸くした。
「レオンハルト」
エドヴァルトが我が子に言い聞かせた。
「叔母上だ。あちらのお方がセレスティア叔母上だ。叔母上は、お前のために三歳から頑張った人だ」
レオンハルトはセレスティアをじっと見た。
それから、小さな手を伸ばした。
「あ」
声が出た。
手が伸びてくる。
セレスティアは歩み寄って、その手を握った。
柔らかかった。信じられないほど柔らかかった。
「初めまして、レオンハルト。叔母上です」
レオンハルトが手を引っ張った。笑顔になった。
小さな歯が二本見えた。
◇
しばらく三人で座った。
暖炉の前で。
レオンハルトはミルクパンを手に持って、ふにゃふにゃとかじっていた。うまく食べられない。それでも離さない。しっかりとした手で。
「父上に似てる」
セレスティアが言った。
「どこが」
「手。しっかり掴む」
エドヴァルトが眉を上げた。
「そうか」
「お兄様も、昔、そうだった。わたしの手を引く時も、肩に手を乗せる時も、しっかりとしていた」
「記憶力がいいな」
「大事なことは覚えています」
◇
ベアトリクスが台所に行った。お茶の準備。
二人になった。
「セレス」
「何」
「来てくれてよかった」
「手紙を半年読み返した。来ないわけにいかない」
エドヴァルトが少し目を細めた。
「何を読み返した」
「よくやった、って部分を」
「……」
「五文字しかないのに、重くて。ずっと頭の中に残った」
エドヴァルトは暖炉を見た。
レオンハルトがパンを持ちながら、父親の膝に頭を乗せようとしている。エドヴァルトが無言でそれを受け止めた。当たり前のように。
「報告書はすべて読んだ」
「何の?」
「三歳から今まで。お前が何をやってきたか。父上の書庫に全部ある。お前の判断。行動。書簡。十五年分」
「お兄様」
「読んだ。全部」
エドヴァルトの声が低くなった。
「三歳で始めた時のお前は怖かっただろう」
「……怖かった。すごく」
「一人で始めて。正解が分からないまま。失敗したら全部終わりで」
「はい」
「それでも止まらなかった」
「止まれなかった、の方が正確です。誰かが困っているのに、前世の知識があるのに、止まることができなかった」
◇
レオンハルトが眠くなってきた。
目をこすっている。
エドヴァルトが子供の体を抱え直した。自然な動作。慣れた動作。
「俺が南方に行っている間」
「はい」
「お前のことが、心配だった」
「知っています。コンラートが言っていました。エドヴァルト殿がよく名前を出していたって」
「あの男は余計なことを言う」
「必要なことを言ったのだと思います」
エドヴァルトが息を吐いた。
「死にかけた。三回」
「報告書で読みました」
「読んだのか」
「全部。南方の戦況も。ブラウンヴァルトも。全部」
「心配したか」
「しました。とても」
「なら顔に出せ。お前はいつも顔に出さないから、こっちが分からない」
「お兄様も出さないでしょう」
「俺は男だ」
「関係ないと思います」
沈黙。
そして、どちらからともなく、口元が緩んだ。
◇
レオンハルトが眠った。
エドヴァルトの腕の中で。
穏やかな寝顔。ミルクパンを手に持ったまま。
「お兄様に聞いていいですか」
「何だ」
「幸せですか」
エドヴァルトが少し考えた。
「穏やかだ」
「穏やかな」
「幸せというには、こう、大げさな気がする。でも穏やかだ。朝、目が覚めて。ベアトリクスがいて。この子が笑って。それだけで十分だと思う」
「それが幸せではないですか」
「そうかもしれない。言葉は苦手だ」
「わたしも苦手です。書くのは得意だけれど、話すのは」
「似ているな、俺たち」
「そうかな」
「無口なところが」
「お兄様は無口。わたしはよく喋ります」
「喋り方が似ている、ということだ。大事なことだけ、ちゃんと言う」
◇
帰る時間になった。
玄関で、エドヴァルトがレオンハルトを抱えて見送った。
ベアトリクスが隣に立っている。
「またいらしてください。レオンハルトは覚えていないかもしれませんが」
「覚えなくていいです。また来るから」
「来い。いつでも」
エドヴァルトが言った。
「叔母上には、追いかけてでも来る理由がある。そうだろう、レオンハルト」
レオンハルトが目を開いた。眠い目で。
セレスティアを見た。
また小さな手を伸ばした。
「あ」
セレスティアは歩み寄って、その手を握った。
「またね。レオンハルト。叔母上は帰ります」
「あ、あ」
「また来るね。蜂蜜入りのパンを持って」
◇
馬車に乗った。
動き始めた馬車の窓から振り返った。
エドヴァルトが門の前に立っていた。レオンハルトを抱えたまま。ベアトリクスが隣で小さく手を振っている。
エドヴァルトは動かなかった。
ただ立っていた。
馬車が曲がり角に差し掛かった。
見えなくなる直前。
おにいさまが、片手を上げた。
小さく。




