仲間たちの未来
王妃として戴冠してから三ヶ月。初夏を迎え、王宮の執務室で、セレスティアは報告書を読んでいた。
窓の外で若葉が風に揺れている。机には、ナターシャが各地から集めた定例報告が積まれていた。
ヴィオレッタの領地からは、農地再分配に反対する旧臣の抗議が三十七通。報告書の余白には彼女の筆で、「測量は予定通り月曜から」とだけあった。
十日後に故国へ帰るリディアは、外交日程の末尾へ「出発前に石段でパンを。これは命令ではなく希望です」と書き足している。
コンラートの巡回訓練表には泥の指跡がつき、アネリーゼが公開した神殿会計簿には、返還された寄付金の額が一桁ずつ並んでいた。
イザベラは三年がかりの省庁再編を終えた。完了報告の裏には、「次は、自分のために選ぶ練習をする」と本人の字で記されている。
引退したはずのマルガレーテからは、レオンハルトの靴を一月で二度作り直したという苦情が届いた。結びには、次の寸法を測る日まで書いてあった。
誰も同じ場所には留まっていない。それぞれの持ち場で、次に直すべきものを見つけている。
その束の中に、友人たちの近況とは違う一冊の綴りが挟まっていた。
『王都魔術学校・実習班編成に関する生徒申立て及び試行報告』
最初に署名したのは、入学式で会ったそばかすの少女だった。名はハンナ。村に治癒師がいなかったため、自分が治癒師になるのだと話していた少女だ。
綴りには本人の申立書だけでなく、同級生と担当教師の陳述、三週間の試行記録まで収められていた。
◇
魔力制御の実習が終わると、生徒たちは淡い光を失った水晶を台へ戻し、次々に演習場を出ていった。
ハンナの手にあるのは、水晶ではなく記録用の帳面だった。三度目だった。ほかの生徒が光を保った秒数も、失敗した回数も、もう誰より正確に書ける。
最後の一組が出ていっても、ハンナは席を立たなかった。帳面の下から、何度も開いた跡のある校則を取り出す。
「先生。これ、間違いですか」
帰り支度をしていた教師が振り返った。
ハンナが指したのは、『身分にかかわらず、同じ課程の授業を受ける権利を有する』という一行だった。
「間違いではない。記録も授業の一部だ」
「では、次は水晶に触れますか」
「組む相手が決まればな」
「先生が決めてください」
教師の手が、鞄の留め金にかかったまま止まった。
三十二人を一人で見る授業だった。補助教員はいない。割れた水晶を買い替える予算も足りない。慣れた者同士に組ませれば事故は減り、教師の査定も下がらずに済む。
「魔力を預け合う実習だ。信頼できない相手と組ませるわけにはいかない」
「なら、いつ信頼してもらえますか」
答えは返ってこなかった。
「王妃陛下に手紙でも書くのか」
廊下から声がした。貴族の少年が一人、扉にもたれている。最初の実習で「あの子が水晶を割ったら、誰が弁償する」と言った少年だった。
ハンナは校則を閉じなかった。
「書きません」
「どうして」
「ここに校長先生の印があります。まず、ここで聞きます」
少年は教室へ戻り、ハンナの帳面を横から覗いた。三回分の頁をめくり、眉を寄せる。
「三回とも、お前だけか」
「はい」
しばらく黙った後、少年は教師を見た。
「次は僕が組みます。先生の一番近くの台にしてください」
「君の家は、平民との実習に反対しているだろう」
「僕が選んだと書いてください」
ハンナは帳面を抱き直した。
「怖くないんですか」
「怖い。だから先生の近くでやるんだ。僕だって最初は三回も光を消した」
少年はそう言ってから、付け加えた。
「それに、記録係がこんなに上手いなら、数える方は任せられる」
机の端に置かれた申立書を、教師は長い間見ていた。やがて鞄を置き、羽根ペンを取った。
用紙には、事故の件数を書く欄がある。平均点を書く欄もある。実習に参加できなかった生徒を書く欄だけがなかった。
教師は定規を当て、余白に一本の線を引いた。
『実習未参加者 一名。三回』
そう書き、自分の名を署名した。
翌朝、申立書には校長の印が押された。三週間だけ、組を教師が輪番で決め、保証金の額を参加の条件にしない。代わりに水晶を同時に使う組を半分にし、教師の目が届く範囲で行う。進度が遅れることも、保護者から抗議が来ることも、承知した上での試行だった。
最初の実習で、ハンナの指は水晶の上で震えた。隣の少年が数を間違え、二人の光は一度消えた。
「ごめんなさい」
「今のは僕だ。もう一回」
二度目の光は弱かったが、規定の時間まで消えなかった。
◇
三週間の試行で事故はなかった。一方、貴族の保護者七家から抗議の書状が届き、貸与用の器具も必要数の半分しかない。授業の進度は、当初の予定より九日遅れた。
それでも校長は、輪番制の継続を教育委員会へ申請した。担当教師が余白へ書き加えた「実習未参加者」の欄は、次の査定表から正式な項目になる。
報告書の命令欄は空白だった。代わりに、ハンナ、同級生、担当教師、校長、教育委員の署名が、頁をまたいで並んでいる。
「ナターシャ。これは、誰が始めたの」
「最初に声を上げたのはハンナです。続けると決めたのは、学校にいた方々です」
セレスティアは、余白に引かれた一本の線を指で辿った。定規を使ったのだろう。それでもわずかに震え、印刷された枠とは違っていた。
「わたしの知らないところで」
「はい」
セレスティアは報告書を閉じた。最後まで空白だった命令欄よりも、頁をまたいで続く署名の方が、はっきりと目に残った。
学校からの報告書の下には、もう一つの書類が残っていた。
『地方魔力学校・第二期開設計画』
今秋までに十二校を開く予定だった。平民の子供が王都へ来なくても、基礎的な魔力教育を受けられるようにするための学校だ。書類の右上には、赤い文字があった。
『要再検討』
赤字は国王の筆跡だった。その時、扉が開き、アレクシスとイザベラがさらに厚い書類を抱えて入ってきた。
「これはどういうこと?」
セレスティアが赤い文字を示すと、アレクシスは向かいの椅子に座った。
「書いた通りだ。十二校同時の開設は認めない」
「基礎予算は通っている。校舎も九校まで完成しているでしょう。教材貸与の追加分なら、予備費を回せる」
「建物だけ完成しても学校にはならない」
イザベラが書類を開いた。
「教員が四十二人不足しています。地方へ赴任する魔術師が、予定の六割しか集まりませんでした。北部校では開校前の試験中に防護石が割れています。けが人はいませんが、同じ石材を使った三校は交換が必要です」
「王都の教員を交代で派遣すれば」
「試算済みです」
イザベラの返答は速かった。
「移動日を含めると、王都側の授業が月に九日止まります。地方のために王都を止めれば、今度は既に入学した子供たちが授業を失います」
セレスティアは黙った。アレクシスがもう一冊の帳面を置いた。
「終身幽閉区画も同じだ。改修中に地下の排水路が崩れた。予定通り囚人を移せば、雨季に壁が沈む可能性がある。看守の訓練も終わっていない」
「では、両方延期するの?」
「学校は七校だけ開く。五校は来春へ延期する。収容区画は工事と訓練が終わるまで、現在の牢の隔離棟を臨時に王国直轄として使う」
「十二校開くと公表した。死刑廃止の実施日も告示した。延期すれば、約束を破ったと言われる」
「言わせればいい」
アレクシスの声は低かった。
「数を守るために教師のいない教室を開く方が、約束を破っている。日付を守るために崩れる牢へ人を入れるのは、統治ではない」
セレスティアは反論しかけて、やめた。悔しかった。法案を通すまでに何年もかけた。通った後は、決めた通りに進められると思っていた。
だが、紙の上の十二校に子供は座れない。条文だけでは壁を支えられない。
「延期の理由を全部公表する」
セレスティアは言った。
「不足している人数も、割れた防護石も、排水路の崩落も。七校を成功のように飾らない。五校を開けなかったことまで伝える」
イザベラが頷いた。
「来春の計画には、地方出身者を教員として育てる課程も加えます。一時的な派遣だけでは、また同じことになります」
「お願い。アレクシス」
「何だ」
「赤字で『要再検討』とだけ書くのは、次からやめて。心臓に悪い」
「では『このままでは署名しない』と書く」
「もっと悪い」
イザベラが、書類で口元を隠した。笑っている。予定通りではない。完全でもない。
それでも七校は開く。残る五校を開く仕事は、来春まで続く。改革は、可決の日では終わらなかった。
◇
報告書をすべて読み終えた。窓の外の若葉が、風に揺れている。セレスティアは窓辺に立った。明るい緑。穏やかな王都。
だが、その屋根の向こうには、まだ開けない教室がある。開いていても、全員が同じ実習を受けられない教室がある。修理の終わらない牢がある。制度が変わっても、明日から急に全てが整うわけではない。
「来春までに、五校」
「一つずつだ」
アレクシスが言った。
「明日の朝までに、変更日程を作ります」
イザベラもアレクシスも、すでに次の書類を開いている。セレスティアは、仕事を続ける二人の姿を見た。
「ありがとう。明日もよろしく」
平穏とは、何もしなくていい日ではない。終わらない仕事を、隣にいる人たちと続けられる日だ。
窓の外で若葉が揺れていた。不完全なまま進んでいく、初夏の風の中で。




