閑話 母が残した帰る場所 リリアーナ視点
王妃となった娘が初めて実家へ帰ってきたのは、戴冠式から十二日後のことだった。
先触れには、午後二時到着、滞在一時間半とあった。護衛十二名、侍従四名、女官三名。娘一人が帰るだけなのに、紙には二十人分の名が並んでいる。
リリアーナはその紙を畳み、出迎えの位置を玄関広間から朝食室へ変えさせた。
「王妃陛下を玄関でお待ちしなくてよろしいのですか」
家令が念を押した。
「王妃陛下なら玄関で待ちます。でも今日は、娘が帰ってくるの」
言い切ってから、少しだけ不安になった。
王冠は、人と人の間にも置かれる。娘がその重さを引き受けた日から、母親だけが以前と同じでいてよいのか。抱きしめる前に許可を求めるべきなのか。
考えているうちに、馬車の音がした。
廊下の向こうから、女官の声が近づく。
「王妃陛下がお着きになりました」
扉が開き、セレスティアが入ってきた。
薄紫の外出着。銀の髪は一分の乱れもなく結われている。胸元には王家の紋章。十二日前までの娘と何も変わらないはずなのに、部屋へ入る前に一瞬だけ立ち止まった。
「おかえりなさい」
リリアーナが先に言った。
セレスティアの肩から、目に見えない何かが落ちた。
「ただいま帰りました、おかあさま」
「その言い方は、よその家へ挨拶する時のものよ」
娘は目を瞬かせた。背後の女官たちも困った顔をする。
「では……ただいま、おかあさま」
「はい。おかえりなさい」
今度は自然に言えた。
リリアーナは娘を朝食室へ連れていった。卓上にあるのは、格式張った菓子ではない。蜂蜜を入れた紅茶と、薄く切った林檎、焼きたての小さなパンだった。
「昼食は王宮で済ませました」
「知っているわ。でも、あなたは緊張すると半分しか食べないでしょう」
セレスティアの視線が、付き添いの女官へ向いた。女官は気まずそうに目を伏せた。
「誰から聞いたんですか」
「母親には情報局より古い情報網があるの」
椅子を勧めると、娘は素直に座った。パンを一口食べ、紅茶を飲む。カップを持つ指が冷えていた。
「王宮は寒い?」
「いいえ」
「では、怖いのね」
娘の指が止まった。
王妃になったばかりの十二日間、きっと誰もが尋ねただろう。執務に不都合はないか。謁見は予定どおりか。臣下の礼を受ける心構えはできているか。
怖いかと尋ねた者は、いなかったのかもしれない。
「……失敗できないと思うと、少し」
「どうして?」
「わたしが失敗すれば、若すぎる王妃だからだと言われます。女だから、公爵家に甘やかされた娘だから、と。アレクシスの治世にも傷がつく」
「それで昼食を半分にすれば、失敗しなくなるの?」
「なりません」
「では、食べなさい」
セレスティアは困ったように笑い、もう一口パンを食べた。
リリアーナは向かいに座った。娘を励ます言葉なら、いくらでも選べる。あなたなら大丈夫。今まで全て乗り越えた。国中があなたを信じている。
けれど、それを言えば、娘はまた「大丈夫な自分」を演じるだろう。
「失敗しても、帰ってきなさい」
「おかあさま」
「勝った時だけ帰る場所ではないのよ、ここは」
「でも、王妃が逃げ帰るわけには」
「逃げるためではなく、立て直すために帰るの。泣いて、食べて、眠って、それから戻ればいい」
娘の目が赤くなった。
「わたしの部屋は、まだありますか」
「そのままよ。勝手に書斎へ変えたら、わたしがライナルトを追い出すと言ってあるもの」
廊下の外で、誰かが短く咳払いした。夫が近くを通ったらしい。
セレスティアが声を立てて笑った。
その笑い方は、王妃のものでも、国を救った英雄のものでもない。林檎を盗み食いして見つかった頃の、娘の笑い方だった。
予定の一時間半が過ぎ、女官が次の謁見の時刻を告げた。
セレスティアは立ち上がった。入ってきた時より、肩が少し上がっている。
「行ってきます、おかあさま」
「行ってらっしゃい」
リリアーナは玄関まで見送らなかった。出陣する者のように送り出せば、娘はまた戦う顔をしてしまう。
朝食室の窓から、馬車が門を出るのを見た。
空になったカップの底には、溶けきらなかった蜂蜜が少し残っている。娘が完全に平気ではなかった証拠であり、それでもここへ帰ってきた証拠だった。
王冠を下ろせる場所を一つ残すこと。
それが、王妃の母ではなく、セレスティアの母にできる仕事だった。




