閑話 石段の花
卒業式の翌朝、フリーデリケは誰もいない学園へ戻った。
寮母に返し忘れた鍵がある、と嘘をついた。制服のポケットには鍵ではなく、父の道具箱から借りた小さな鉄のノミが入っている。
東棟の裏へ回ると、古い階段は朝露に濡れていた。五段目に座り、壁を確かめる。人目につきにくく、蔦を戻せば隠れる場所を選んだ。ノミを当て、石を削る。
思ったより硬い。一本目の線を引くだけで指が痛くなり、白い粉が制服の膝に落ちた。
「もっと簡単だと思ったのに」
小声でこぼしながら、何度もノミを動かす。その音を聞いていると、入学したばかりの頃、ここで一人きりの昼食を取った日のことを思い出した。貴族の娘たちの絹の制服に囲まれ、木綿の服を着た自分だけが、学園の景色から浮いている気がした。
四日目、セレスティアが名前を呼んでくれた。
パンの形を笑われると思ったのに、「かわいい」と言って隣を叩いた。たったそれだけで、次の日から昼休みが怖くなくなった。
石の表面に、少しずつ文字ができていく。
『セレスティアさまのせき』
最後の「き」が大きく跳ねた。直そうとすると、余計に歪んだ。
「パンと同じだ」
フリーデリケは笑い、削り屑を払い落とした。蔦を元へ戻すと、文字はきれいに隠れた。
いつかセレスティアが見つけるかもしれない。見つけないままでもよかった。誰も知らなくても、ここに二人分の昼休みがあったことは消えない。
◇
領地へ戻って最初の春、フリーデリケは母の庭から苗を二十株分けてもらった。
丘の土を耕し、父に教わって畝を作る。風の通り道を読み、水が溜まらないよう溝も掘った。
「そこは間隔が狭い。育ったら葉が重なるぞ」
「このくらい?」
「もう靴一足分だ」
父が鍬の柄で場所を示す。フリーデリケは植えたばかりの苗を抜き、土を払い、置き直した。
一年目は長雨で半分が根腐れした。残った株から花を摘んでも、香りが弱く、王都へ送れる出来ではなかった。
二年目は乾燥した。朝晩に水を運び、手の皮が剥けても、丘の上の株は次々に枯れた。
「向いていないのかもしれない」
空になった畝の前でしゃがみ込むと、母が隣へ腰を下ろした。
「花を育てるのに、失敗しない人はいないよ。枯れた株を数えるより、残った株がどうして残ったか見なさい」
残ったのは、風除けの柵から少し離れた七株だった。風は当たるが、強すぎない。土には細かな石が混ざり、雨のあとも水が早く引いていた。
フリーデリケは場所ごとの土と風向きを帳面へ書き、三年目は畝を作る位置から変えた。
春の終わり、丘の斜面に初めて紫の列が揃った。
花穂を一本切り、指で軽く揉む。青さの混じった強い香りが立った。眠れない夜に届けてきた香りと同じだった。
「お父さん、王都へ送ってもいいかな」
「まず本人に見てもらえ。お前は出来の悪いものほど隠すからな」
「今回は大丈夫。たぶん」
「たぶん、か」
父は笑い、納屋から一番大きな籠を出してくれた。
収穫の日には、近隣の家から三人の娘が手伝いに来た。冬場の仕事が少なく、王都へ奉公に出るか迷っていた娘たちだった。
フリーデリケは母と相談し、摘んだ籠の数ではなく、働いた時間で賃金を払うことにした。速さを競えば、花を傷めるうえに指まで切ると知っていたからだ。
「本当に、わたしたちが香油作りも習っていいんですか」
一番年下の娘が尋ねた。
「わたしも失敗しながら覚えたの。一緒に試してくれる人がいた方が助かるわ」
蒸留釜の温度を上げすぎた最初の一瓶は、焦げた草のような匂いになった。四人で顔を見合わせ、窓を全開にして笑った。
花畑が広がるにつれ、丘には畝だけでなく、人が働く場所もできていった。
◇
王都へ送る束を作る日は、夜明け前から家族総出になった。
母が茎の長さを揃え、父が籠の底へ湿らせた布を敷く。フリーデリケは花を潰さないよう、一本ずつ向きを合わせた。
籠の隅には、前夜に焼いたハート型のパンも入れた。型を使ったのに、左側だけ膨らみすぎている。
「焼き直すか?」
父に聞かれ、フリーデリケはしばらく考えた。
「ううん。味見したら、おいしかったから」
短い手紙を添える。
『今年の花が咲きました。パンも焼きました。どちらも一度、見てください。』
英雄のような言葉は書けない。政治の助言もできない。それでも、香りのよい花を育て、食べれば笑えるパンを焼くことならできる。
荷馬車が丘を下っていくまで、フリーデリケは道端で見送った。
手を振った拍子に麦わら帽子が飛び、慌てて追いかける。後ろで父と母が声を上げて笑った。
拾い上げた帽子には、紫の小さな花が一つ引っかかっていた。




