石段の再訪
王妃戴冠式の翌日。まだ王都が眠っている、早朝。
王宮の厨房でパンとチーズを包んでもらい、飾りのない外套を羽織って裏門を出た。護衛はヴォルフだけだ。
学園の近くまで来たところで、「少しだけ、一人にして」と頼んだ。
ヴォルフは三秒ほど黙って、それから頷いた。
「……三十分だけ」
「一時間」
「……四十五分」
「わかった。四十五分」
いつもの妥協点だった。
◇
王立クレセンティア学園の正門は、朝靄の中にあった。門番は王妃の顔に気づいて目を見開いたが、セレスティアが唇に指を当てると、帽子を取り、黙って裏門の鍵を開けてくれた。
春休み中で人気はない。静まり返った校舎。若葉が芽吹き始めた中庭。春先の静かな風景。
セレスティアは正門を通らなかった。裏門から入った。あの石段に向かって。
◇
東棟と中庭を繋ぐ古い階段は、十二段のまま残っていた。緑の苔が目地を埋め、何百人もの生徒に踏まれた角は丸くなっている。五段目に座った。いつもの場所。
冷たい石。朝の冷気を吸って、ひんやりとしている。でも不思議と、懐かしい冷たさだった。鞄からパンとチーズを取り出した。
昨日の祝宴に出た上等な白パンへ熟成チーズを挟む。厨房では温め直すと言われたが、学園時代の昼食らしくしたくて断った。
冷えたパンを齧ると、少し硬い。フリーデリケが初めて持ってきた不格好なパンも、こんなふうに噛み応えがあった。
◇
パンを食べ終えた。チーズの欠片を指で拾って、口に入れた。
石段の表面を手で撫でた。冷たい石。でも、記憶で温かい。
ふと石段脇の壁へ目を向けた。苔と蔦に覆われた石壁の一角に、小さな文字が刻まれていた。
小さな、拙い文字。石に何か硬いもので彫ったような。
セレスティアは目を凝らした。蔦をそっとよけた。
『セレスティアさまのせき』
息が、止まった。フリーデリケの字だ。
丸くて。歪んでいて。「せ」の字が左に傾いていて。「き」の最後の画が跳ねていて。いつ刻んだのだろう。
学園時代。セレスティアがいつもこの石段に座っていることを、フリーデリケは知っていた。知っていて、こっそり、刻んだのだ。セレスティアの席。誰にも言わずに。
誰かに見せるためではなく、ここをセレスティアの場所として残すために刻んだのだろう。
◇
指先を文字に置いたまま、しばらく動けなかった。喉の奥が詰まり、息を吸うたびに胸が熱くなる。
パンを食べ、友と語り、ときには悔しさを押し殺した場所だった。
「フリーデリケ」
胸の内を言葉に置き換えるように、静かに呟いた。
◇
石段に座ったまま壁の文字を見つめていると、朝靄が少しずつ晴れていった。学園の時計塔が朝の鐘を鳴らした。七時。四十五分がそろそろ終わる。
遠くの木陰から、ヴォルフがこちらを見守る気配がする。姿は見えなくても、必ずそこにいる。セレスティアは立ち上がった。
石段の五段目を手で叩いた。ぽん、と。軽く。
「また来るね」
壁の文字をもう一度、指でなぞった。
『セレスティアさまのせき』
左へ傾いた「せ」の字を、最後にもう一度だけ指でなぞった。
◇
裏門を出た。ヴォルフが木の陰から姿を現した。
「……四十七分です」
「二分、超えた」
「……許容範囲内です」
「ありがとう、ヴォルフ。待たせたね」
「……待つのは慣れております」
鍵を預かっていた門番が、二人のそばまで来た。
「陛下。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何ですか」
「東棟の階段は手すりが古く、夏の休校中に直す予定です。あの場所を残すよう、王宮から申しつけましょうか」
石壁の小さな文字まで、門番も知っていたらしい。セレスティアは少し考えた。
「いいえ。危ないところはきちんと直してください。生徒が座れなくなったら、あの場所らしくないもの」
「文字のある壁は?」
「工事の邪魔にならないなら、そのままに。でも囲いや説明板はいりません」
門番は意外そうな顔をしたあと、笑って帽子を取った。
「承知しました。では、次の生徒たちにも使ってもらいます」
「お願いします」
セレスティアは微笑んだ。見慣れた道を王宮へ戻る足取りは、来た時より少しだけ軽い。王妃は、自分の足で王宮へ向かった。




