閑話 銀髪の父は見ていた ライナルト視点
戴冠式が終わった日の夕刻、ライナルトは控えの間で一枚の任命状を破った。
正確には、破る前に二度読んだ。
『王妃陛下の御父君たるアルヴェイン公爵を、王室特別顧問に任ずる。国政上の重要案件について、常時、国王及び王妃へ助言する権限を認める』
文面は礼儀正しく、差出人も善意を装っていた。だが中身は明白だった。娘の王冠を通して、公爵家が国政へ常に手を差し込める席を作ろうとしている。
その席に座れば、アルヴェイン家は王国でもっとも強い家になる。
だからこそ、座ってはならなかった。
「父上。本当に破るのですか」
エドヴァルトが、床へ落ちた紙片を見た。
「見れば分かるだろう」
「推薦した三家は、既に承諾を得たつもりでいます」
「私の承諾を得ずにか」
「今日の父上なら、娘を支えるためと言えば断れないと考えたのでしょう」
ライナルトは鼻で息を吐いた。読みの浅い者たちだった。娘を守るためなら何でもする父親と、娘の名を使って権力を取る父親は、同じではない。
「公爵家の当主として意見を求められれば答える。貴族院でも票を投じる。それ以上の席はいらん」
「では、そのように返答します」
「待て。私が自分で言う」
任命状を持ってきた侍従へ返すだけでは足りない。断ったという事実が娘へ届くまでに、「公爵は王妃を見放した」と形を変えられる恐れがある。
政治とは、沈黙した者の意図を他人が勝手に書く場所だ。ならば、自分の言葉で先に線を引くべきだった。
ライナルトは、王妃の執務室へ向かった。
廊下には、式典を終えた臣下たちがまだ行き交っている。礼を受けるたび、彼らの視線が一瞬だけ探るように動いた。
王妃の父。新しい王の義父。これから誰へ頭を下げれば得をするのか、計っている目だった。
扉の前で名を告げると、娘はすぐに通した。
王冠は外していた。銀の髪には留め具の跡が残り、机の端には次の謁見者の名簿がある。白い礼装の肩は、朝より少し下がって見えた。
「おとうさま。どうしましたか」
公の場に近い、整えた声だった。
ライナルトは破った任命状を机へ置いた。娘は紙片をつなぐように読み、眉を寄せた。
「聞いていません」
「お前に知らせる前に、私の了承を取るつもりだったのだろう」
「特別顧問という役目を作れば、おとうさまが助けてくださると」
「役目がなくても、必要なら助ける」
「でも、断れば、公爵家が王家から距離を置いたと言われます」
「言わせておけ」
娘の表情が固くなった。今日一日、祝福の言葉ばかり浴びた顔に、初めて政治家の警戒が戻る。
「簡単に言わないでください。戴冠直後に最大の後ろ盾が退けば、改革に反対する人たちは喜びます」
「退くのではない。線を引く」
ライナルトは娘の机の向こうへ座らず、立ったまま言った。
「私はアルヴェイン公爵として、お前の法案に反対することもある。王妃の父として、帰ってきたお前を迎える。二つを混ぜれば、いずれ誰もお前の判断を信じなくなる。全て父親が決めているとな」
「わたしは、そんなことを許しません」
「お前が許すかどうかではない。権力は、あるだけで疑われる」
娘は言い返そうとして、破れた紙へ目を落とした。
幼い頃なら、守るために父が前へ出ればよかった。誰を屋敷へ入れるか決め、危険な手紙を取り上げ、娘の前に壁を作った。
だが王冠を戴いた娘の前に、父の壁を置き続ければ、今度は娘の視界を塞ぐ。
「三歳の頃、お前は私の書斎へ来て、母親を助けてくれと言った」
「覚えています」
「私は遅れて、お前の言葉を信じた。それからは、お前を守るため先に立とうとした」
ライナルトは一度言葉を切った。祝辞よりも、はるかに言いにくい。
「今日からは、お前が先に立て。私は必要な時だけ呼べ」
娘が顔を上げた。
「呼ばなかったら?」
「公爵として必要なら、勝手に意見を言う」
「そこは変わらないんですね」
「変える必要がない」
ようやく、娘が笑った。王妃の作り笑いではなく、よく知るセレスティアの笑い方だった。
「分かりました。任命状は受け取りません。王室からも、特別顧問という役目を置かないと公表します」
「理由も書け。王妃の実家が王権を私物化しないためだと」
「ずいぶん厳しい言い方です」
「最初に曖昧にすれば、後で厳しくできない」
セレスティアは新しい紙を取り、返答を書き始めた。疲れていても、筆は迷わない。
ライナルトはその横顔を見た。
大聖堂で王冠を受けた姿より、今、父の申し出を吟味し、自分の言葉で決めている姿の方が、王妃に見えた。
守るために先頭を歩く時期は終わった。
これからは、娘が振り返った時だけ見える距離に立つ。それは離れることではない。信じて一歩を譲ることだった。




