王妃戴冠
婚礼と王妃戴冠の日は、春晴れの朝を迎えた。王都の空には一点の曇りもなかった。
◇
控えの間では、朝から人が行き交っていた。侍女が箱を開け、仕立て職人が裾の皺を伸ばし、儀礼官が扉の外で入場時刻を読み上げている。
その中央で、セレスティアは白いドレスに袖を通した。
絹地の裾には、公爵家と王家の紋章が銀糸で並んで縫い込まれている。
マルガレーテが最後のボタンを留めた。老いた指がわずかに震えていた。
「お嬢様。綺麗です」
「マルガレーテ。泣かないで。まだ早い」
「泣いていません。湿度が高いだけです」
「今日は晴れているよ。湿度は低い」
「わたくしの周りだけ湿度が高いのです」
セレスティアは笑った。ナターシャが襟元を整え、銀の髪飾りを留めた。櫛を置いたあとも、鏡越しに左右の高さを二度確かめる。
「セレスティア様。お時間です」
「ナターシャ。ありがとう。ここまで」
「感謝は式の後に。今は集中なさってください」
言葉とは裏腹に、ナターシャの目は赤かった。ヴォルフは扉の前に立ち、廊下を行き交う者を一人ずつ確認している。式の日でも、その仕事ぶりだけは変わらない。
「ヴォルフ。行くよ」
「……はい」
◇
大聖堂前の広場には、人が溢れていた。貴族も平民も、商人も職人も農民も、この国を生きるあらゆる人々が集まっていた。
王都の人口を超える数の人々が近隣の街や村からも集まっていた。宿は三日前から満室。広場に入りきれない人々が、通りの奥まで溢れている。
白い花弁が舞っていた。歓声が鳴り響いていた。
祝福の鐘が空に響いていた。心臓が鳴った。とくん。とくん。とくん。
◇
馬車を降りると、鐘の音が身体まで震わせた。父ライナルトが待っており、無言で右腕を差し出す。
セレスティアが腕を取ると、父は前を向いたまま囁いた。
「歩幅はお前に合わせる。急ぐ必要はない」
「はい、お父様」
二人で大聖堂への道を歩いた。白いドレスの裾が石畳を滑り、マルガレーテとナターシャが数歩後ろで裾を支える。
道の両側には人垣が続き、手を振る人、涙を流す人、祝福の花を投げる人がいた。
「セレスティア様!」
「王妃様万歳!」
「改革の姫君!」
投げられた白い花が一輪、父の肩に載った。父は気づかないふりをして歩き続けたが、扉の前でそっと拾い、セレスティアへ渡した。
大聖堂の扉が開いた。
光が差し込んだ。ステンドグラスを通した、七色の光。
その光の奥に、白と金の正装をまとい、王冠を戴いたアレクシスが立っていた。蒼い目が、まっすぐセレスティアを見ている。
今、王として、花婿として、そこに立っている。
◇
入口で父の腕を離れ、セレスティアは長い通路を歩いた。磨かれた床に靴音が一つずつ響く。左右の席には、王都で出会った人々だけでなく、地方の学校や農村から招かれた代表者の姿もあった。アレクシスの前で立ち止まった。
「来たね」
「来たよ。遅くなった?」
「ちょうどいい。いつも通りだ」
アレクシスが手を差し伸べた。セレスティアはその手を取った。
◇
大神官が、誓いの言葉を読み上げた。
「汝、セレスティア・フォン・アルヴェイン。この者を夫とし、生涯を共にすることを誓うか」
「誓います」
声は震えなかった。続いて、金と銀で作られた飾りの少ない対の指輪を交換する。
アレクシスがセレスティアの薬指へ指輪を通す時、その手がほんの少しだけ震えた。
セレスティアは気づいた。この人も緊張している。
それがなぜか嬉しかった。やがて大神官シルヴェストルが祝福を授け、聖水を振りかけて祈りを捧げた。儀式の節目で、参列者が立ち上がった。
最前列では、アルヴェイン公爵とリリアーナ、エドヴァルトとベアトリクス、そしてフェリクスが見守っている。
その隣に、エレオノーラが座っていた。摂政の座を降り、母として息子の傍にいることを選んだ人。リリアーナと手を握り合っている。四十年近く前、学園の寮で並んでいた二人が、今、息子と娘の婚礼を並んで見ている。
◇
婚礼の誓いに続いて、戴冠の儀式が始まった。銀の王冠がセレスティアの頭上に掲げられた。
銀と紫水晶でラベンダーをかたどった、世界にひとつだけの王冠だ。職人が三ヶ月をかけて作り上げたものだった。
大神官が王冠をゆっくり降ろした。金属の冷たさと重みが髪越しに伝わり、頬を一筋だけ涙が伝った。
銀の輝きと鐘の音、群衆の歓声に包まれながら、セレスティアはかつて処刑されたのと同じ広場に立っている。今ここにあるのは、恐怖ではなく祝福だった。
「今日は笑う日だ、セレスティア」
アレクシスが小さく囁き、手を握った。
「うん。そうする」
セレスティアは涙を拭わず、顔を上げて笑った。
◇
アレクシスがセレスティアの手を高く掲げた。
大聖堂の扉が再び開き、二人が広場へ進み出ると、歓声がさらに大きくなった。階段の下で子供を肩車した父親が手を振り、窓という窓から白い布が翻る。
「セレスティア」
「なに?」
「走った後は帰ってくる。覚えているか」
「覚えている。あなたが言ったんでしょう」
「帰ってきたな。ここに」
「うん。帰ってきた」
春の風が吹き、白い花弁が二人の上に降り注いだ。セレスティアはアレクシスと並び、広場の端までゆっくり見渡してから手を振った。
王冠そのものは確かに重い。けれど、握った手と、下から返ってくる無数の声が、その重みを一人分にはしなかった。




