母への全告白
婚礼の前夜。春先の夜は静かで、窓を閉めていても遠くの鐘が聞こえた。
セレスティアは寝台の縁に腰掛けていた。明日、自分は王妃になる。
けれど、その前に終わらせておかなければならないことがあった。扉が静かに叩かれた。
「セレスティア。起きている?」
「起きている。入って、お母様」
リリアーナは細長い箱を抱えて入ってきた。窓辺の卓に置き、蓋を開く。
中には、白いハンカチが入っていた。紫の小花が縫い取られ、そのうち一輪だけ、花びらの形がわずかに違っている。
「あの時の」
「ようやく完成したの。明日に間に合ったわ」
母はハンカチを取り出さず、箱ごと娘の前へ置いた。
「でも、これを渡す前に聞きたいことがあるの。あの春の話には、続きがあるのでしょう?」
セレスティアの胸が強く鳴った。母は知っていたのではない。見抜いたのでもない。ただ、途中で言葉を止めた娘を覚えていて、続きを待ってくれていた。
「うん。ある」
「今夜、話せる?」
「話したい。明日になる前に」
二人は向かい合って座った。どこから話せばよいのか、十五年間考えても答えは出なかった。だからセレスティアは、飾らず、最初の一言を置いた。
「お母様。あれは夢じゃないの。わたしには、前の人生の記憶がある」
リリアーナは動かなかった。
「前の人生のわたしも、この国のセレスティアだった。一度、十八歳まで生きた。そして、王太子暗殺未遂の罪を着せられて処刑された」
母の指が、膝の上で固く組まれた。
「前世のお母様は、わたしが七歳の時に亡くなった。病気だと思われていたけれど、本当は毒だった。王都から届く薬材の規格と検査証明を偽装され、屋敷の中にも手を貸す者がいた」
「それで、三歳のあなたは薬を……」
「今度こそ守ろうとした。前は何もできなかったから」
リリアーナは口元を手で覆った。セレスティアは目を逸らさなかった。母の驚きも、痛みも、自分が負わせたものとして受け止めたかった。
「前世では、お母様の手を握ることしかできなかった。日に日に痩せていくのを見ていたのに、毒だと気づけなかった。だから記憶が戻った朝、最初に思ったの。間に合わせなければ、って」
長い沈黙が落ちた。
「……あの頃のことを、覚えているわ」
リリアーナの声は震えていた。
「三歳のあなたが、毎日わたしの薬を見に来た。匂いを嗅いで、薬材の名を尋ねて、医師の返事まで聞こうとした。幼い子の気まぐれではないとわかっていたけれど、理由まではわからなかった」
「怖くなかった?」
「少しは。でも、それ以上に、あなたのほうが怖がっているように見えた」
リリアーナは椅子を寄せ、娘の手を取った。
「わたしが死ぬことを知っていたのね。たった三歳で」
「知っていた。絶対に繰り返したくなかった」
「そう」
母はそれ以上、すぐには言えなかった。目を伏せ、何度か息を整えてから、セレスティアの手を自分の頬へ当てた。
「温かいわ」
「お母様?」
「前のわたしが最後に握ってもらった手も、きっと同じだったのでしょうね」
堪えていたものがほどけた。セレスティアの目から涙が落ちた。母はそれを拭わず、ただ両腕を広げた。セレスティアは子供の頃のように、その胸へ身を預けた。
「ずっと黙っていて、ごめんなさい」
「謝らなくていい。あの春にも言ったでしょう。知りたいことと、無理に聞き出してよいことは別だと」
「三歳の子供の振りをした。何も知らない振りもした」
「振りだけではなかったはずよ。笑った時も、泣いた時も、甘えた時も、あなたはわたしの娘だった」
その言葉に、セレスティアは声を抑えられなかった。
母の前で泣くのは、悲しいからだけではない。ようやく、前世の母の死を知る者が自分以外にもできた。その重さを、二人で持てることがうれしかった。
やがて呼吸が落ち着くと、リリアーナが尋ねた。
「前のわたしは、幸せだった?」
セレスティアは目を閉じた。病床の母ではなく、それより前の姿を探した。庭で本を読み、父の帰宅を待ち、子供たちの騒がしさに笑っていた人。
「うん。毒を盛られる前は、お父様と、わたしたちと一緒に笑っていた。幸せだったと思う」
「なら、前のわたしも、今のわたしと同じことを願うわ」
「同じこと?」
「あなたに生きてほしい。明日の先も、そのまた先も」
セレスティアは頷いた。リリアーナは箱からハンカチを取り出し、娘の手に載せた。
「揃っていない花が一輪あるでしょう」
「覚えてる。失敗したけれど、ほどかなかった花」
「ええ。今は、この一輪がいちばん好きよ」
セレスティアは紫の糸を指先でなぞった。明日の衣装は白い。その内側に、このハンカチを忍ばせようと思った。誰からも見えなくてもいい。母と自分だけが知っていればいい。
「お母様。明日、これを持っていく」
「そうして」
リリアーナは微笑み、それから婚礼を迎える娘の髪を、ゆっくりと整えた。今度は、別れのためではない。朝になれば、二人で同じ扉を開けるために。




