婚礼前日の午後
王宮から戻ったのは、夕刻だった。婚礼を翌日に控え、儀礼の確認から衣装の最終調整、入場の順番、誓いの言葉の発音、国璽の押し方まで、一日中準備に追われていた。
頭の中に言葉が詰まっていた。確認事項。名前。順番。明日に必要な全てのことが、整理されないまま積み上がっている。
王都別邸の門をくぐった時、ふと足が止まった。庭。
公爵領の庭ほど広くはない。けれど、木の配置も石畳の曲がり方も、どこか故郷の庭に似せて整えられている。今は夕暮れで、草が橙色に染まっていた。
「ヴォルフ」
「はい」
「少しだけ、一人にして」
ヴォルフは短い間を置いてから答えた。
「承知しました。庭の角で待ちます」
足音が遠ざかった。
◇
庭の隅に、古い石椅子がある。誰かが昔から置いていたもの。苔が生えている。座り心地は悪い。公爵領の庭にあった石椅子とは別のものだ。それでも、そこに腰を下ろすと、あの冷たさを思い出した。
三歳の時から、公爵領の庭で、よく似た石椅子に一人で座って考えた。
母の毒を看破した後。父に話す前に、あそこへ行って考えた。石の冷たさが、頭を冷ましてくれた。何が必要で、何が危険で、何の順番で動けばいいか。小さな身体で、あの場所で考えた。
座った。空が暗くなり始めていた。最初の星が一つ、見え始めた。明日、わたしは王妃になる。
◇
「本当に変わったんだ」
セレスティアは、誰もいない庭に向かって呟いた。
「全部、あの庭から始まった」
涙は出なかった。ただ、じわりと温かかった。
今日は何も決めなくていい。ただ、ここに座っていい。
◇
風が吹いた。庭の木が揺れた。芽吹き始めた若葉が、春先の風に小さく震えている。
「お嬢様」
遠くからヴォルフの声がした。
「ナターシャが夕食の支度ができたと申しております」
「わかった。今行く」
立ち上がった。石椅子から。苔の感触が手のひらに残った。
庭を横切る。夕日の残光の中を。振り返った。一度だけ。
石椅子。そこから連なる記憶。水晶を落とした草。訓練の傷がついた木の幹。回廊の柱。ヨハンが座っていた縁石。カタリナに追いかけられた通り道。
「ありがとう」
庭に、そしてそこに積み重なった全てに礼を言い、それから前を向いた。
◇
ヴォルフが庭の角に立っていた。
「お嬢様、お身体は」
「大丈夫。少し整理していた」
「はい」
「母上は?」
「今夜の便でご到着の予定です。夕食には間に合うかと」
母が来る。今夜は家族で最後の夕食だ。
「ヴォルフ」
「はい」
「明日からは」
言いかけて、止めた。
「明日も、よろしくね」
ヴォルフが少し間を置いた。
「はい。変わらず」
◇
食堂には、ナターシャが料理を並べていた。スープ。パン。焼いた肉。全部、セレスティアの好きなものだ。
「明日は宮廷料理だから、今夜は家の味にしました」
「ありがとう、ナターシャ」
「お母様がいらしたら、もう一皿増やします」
「うん」
席についた。父は長卓の上座で新聞を開いていたが、同じ行を何度も読んでいる。エドヴァルトは酒瓶へ伸ばした手をマルガレーテに叩かれ、フェリクスは明日の式次第にまだ書き込みを続けていた。
「フェリクスお兄様。その紙は食卓へ持ち込まない約束でしょう」
「誓いの言葉の間に鐘が三回入る。二回目で指輪を」
「今日だけで六回聞いたよ」
エドヴァルトが式次第を取り上げ、椅子の背へ置いた。
「明日忘れたら、俺が最前列から指を二本立ててやる」
「それはもっと困る」
父が新聞の陰で咳払いをした。口元がわずかに緩んでいるのを、セレスティアは見逃さなかった。
窓の外が暗くなっていた。星が増えた。明日の婚礼の朝は早い。夜明け前に起きて、支度を始めなければならない。長い一日になる。でも今夜は、ここにいる。
母が来れば、家族が揃う。ナターシャが給仕をし、ヴォルフが廊下に立っている。明日から住む場所が変わっても、この食卓で覚えた声まで消えるわけではない。
明日からはアレクシスが、隣にいる。怖くない。それから少しして、玄関に馬車の音がした。
扉が開き、旅装のままの母が食堂を覗いた。外套の肩に、春の夜気を連れている。
「間に合った?」
「おかあさま」
立ち上がろうとすると、母は片手で制した。
「座っていなさい。明日の王妃に、母親から最初の命令です」
「もう命令されるの?」
「スープが冷める前に食べること」
ナターシャが何事もなかったように一皿増やした。ヴォルフが廊下で、ほんの少し肩の力を抜いた。セレスティアは笑って、母の椅子を引いた。
「おかえりなさい、おかあさま」
「ただいま、セレスティア」




