死刑制度の廃止
秋の初め。婚礼まで、半年ほど。セレスティアは、最後の大きな改革を携えて貴族院の大議場へ向かった。
十歳の秋、世界が処刑を望んでいるようだと思った。
前世で自分の首が落ちた場所に、今世ではヴィクトールの首が落ちれば、歴史の帳尻は合ったのかもしれない。
けれど、それでは世界を書き換えたことにならない。断頭台に載せる首を替えただけだ。
処刑される人間を入れ替えるのではなく、処刑そのものを終わらせる。掲げる法案は一つ。
「死刑制度廃止法案」。
◇
議場は静かだった。いつもなら開会前からざわめきが起きる。反対の声も飛ぶ。だが今日は、誰も軽々しく口を開かなかった。
何百年も続いた刑を終わらせる。その重さを、全員が知っていた。
セレスティアは壇上に立った。議場を見渡した。
「貴族院の皆様。本日、わたしは最後の大きな改革を提案します」
声が議場に響いた。
「死刑制度の廃止。終身幽閉を最高刑とする法案です」
沈黙。長い沈黙。
「この国はもう、人を殺して秩序を保つ必要はありません」
保守派の一人が口を開いた。
「処刑は抑止力だ。それがなくなれば犯罪が増える」
「増えると断定できる根拠は、今のところありません」
イザベラが準備した資料。過去三十年の犯罪統計と処刑件数。
「処刑が多い年に犯罪が減った事実も、少ない年に増えた事実もありません。ただし、この数字だけで、処刑を恐れて犯罪を思いとどまった者が一人もいないとは証明できません」
議場がざわめいた。自分の資料の限界を、提案者自身が認めたからだ。
「ならば、抑止力はあるかもしれないではないか」
「あるかもしれません。ですが、人の命を奪う決定を、『あるかもしれない』だけに預けることはできません」
灰色の軍服を着た老伯爵が立ち上がった。北部国境の領地を預かり、長く盗賊討伐を指揮してきた人物だった。
「数字で牢の扉は守れん。十二人を殺した盗賊を、私は裁判へ送った。あの男が生きたまま牢を破り、十三人目を殺した時、誰がその家族に責任を取る」
「その不安は正しいと思います」
今度は、先ほどより大きなどよめきが起きた。
セレスティアは老伯爵から目を逸らさなかった。
「だから、この法案は刑の名前だけを置き換えるものではありません。重大犯は一般の収容者と分け、王国が直接管理する区画へ移す。国王一人の恩赦では解放できず、刑を変える時は公開の審議を必要とする。ただし、新しい証拠が見つかった時だけは、裁判をやり直せるようにします」
「その牢を何十年も維持する費用は誰が払う。被害者の家族から集めた税で、加害者を生かすのか」
痛い問いだった。
「没収した財産と、収容中の労働で賄います。それでも足りない分は国が負担します。被害者のご家族だけへ押しつけません。そして遺族への扶助は、刑とは別に国の責任として行います」
「犯罪者のために、そこまでするのか」
「犯罪者を軽く扱うためではありません」
セレスティアは、ゆっくり首を横に振った。
「罪を犯した者には、生きて責任を負わせます。わたしは遺族の方に、許してくださいとは言えません。許さなくていい。憎しみが消えなくてもいい。それでも国が、取り返せない間違いをもう一つ重ねないためです」
老伯爵は長く黙った後、席へ戻る前に言った。
「私は、それでも反対する。死をもってしか償えぬ罪はあると思っている」
「はい。反対してください」
セレスティアは答えた。
「わたしは、反対する人を黙らせるために、ここへ立ったのではありません」
老伯爵は頷かなかった。だが、目も逸らさずに座った。セレスティアは一歩、前に出た。
「わたしは処刑を知っています」
議場は完全に静まり返った。
「わたしは処刑の恐怖を知っています。夢で見るのです。毎年。処刑される夢を」
セレスティアの声は震えた。それでも、言葉を止めなかった。
「断頭台。斧。群衆の罵声。全て、知っています。夢の中で」
議員たちの目が変わった。
「夢だと思うかもしれません。でも、その恐怖は本物です。体が震えます。息ができなくなります。目が覚めても、しばらく動けません」
セレスティアは震える指を、演壇の縁に置いた。
「処刑は人を殺すだけではない。その恐怖が、生き残った人々の心に刻まれる。遺族に。友人に。そして、処刑を執行した人にも」
息を一つ整え、議員たちを正面から見返した。
「この国にもう処刑は要りません。罪は裁く。だが命は奪わない。それが、新しい王国の在り方です」
◇
議論は二時間。反対は最後まで弱まらなかった。脱走時の責任。収容費用。国王の恩赦。遺族への通知。条文が一つずつ読み上げられた。
遺族へ刑の変更を事前に知らせる修正は受け入れた。重大犯の収容状況を毎年議会へ報告する修正も受け入れた。一方、反逆罪と多数殺人だけは死刑を残すという案は退けた。例外を決める者の都合で、死刑の範囲が再び広がるからだ。
十四人は、最後まで反対のままだった。アレクシスが演説した。
「この法案を、国王として支持する。王冠は長く、人を殺す決定を下し、それを秩序と呼んできた。廃止後に問題が起きれば、牢を直し、警備を増やし、制度を改める。それは王である私の責任だ。だが断頭台だけは、間違いだと分かった後に直せない」
記名投票が行われ、やがて結果が出た。
「賛成、三十五票。反対、十四票。棄権、三票」
「死刑制度廃止法案可決」
議場が静かに揺れた。歓声ではなく、深い息。
セレスティアは壇上に立ったまま目を閉じた。
「終わった」
セレスティアは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。六年前の晩餐会で杯の縁に触れた、あの給仕の名前を、今も知らない。
裁判記録を取り寄せた。だが届いた要約には、自白と罪名と刑の執行しかなかった。氏名も、命令者も、本人が置かれていた事情もなかった。再確認を求めた時には、もう刑が執行されていた。
弟の借金を理由に従わされたと知ったのは、三年後の法廷だ。本人はもういなかった。実行した責任は消えない。それでも、強制の程度も首謀者の責任も調べきらないまま、取り返せない刑だけが先に終わっていた。
さっき壇上で「処刑の恐怖を知っています」と言った。夢の話をした。
夢の話しかできなかった。あの男の名前を知らないから。
今日の法律は、あの男には間に合わない。もう死んだ人間には、一人も間に合わない。
ミーナ・マイヤーの夫、ルーカスにも間に合わなかった。獄中で死んだ男の時間は戻らない。名も知らぬ配膳係の記録も、失われたままだ。制度を変えても、遅すぎた人間を救い直すことはできない。
だからこそ、これから記録に残る名前を、同じように消させない。死刑を止めることは、過去を帳消しにすることではなく、間に合わなかった事実を抱えたまま、次の一人へ手を伸ばすことだった。
だから、これから死ぬはずだった人間に間に合わせる。それだけのことだ。
◇
議場を出ると、法務官が廊下で待っていた。手にしているのは、施行を待てない三件の執行記録だった。
「法案の公布は明朝ですが、今週中に予定されている刑があります。国王陛下は、可決と同時に執行停止命令を発効させました」
可決の余韻に浸る時間はなかった。セレスティアは壁際の記録台を借り、三枚すべてに目を通した。罪名、判決日、執行予定日。名前の横には、年齢と家族への通知先が記されている。
法務官が、国王の署名がある停止命令を重ねた。法を変えたという実感は、議場の拍手ではなく、三つの執行予定へ公印が押された時に訪れた。
「明朝、終身幽閉への切替審理を始めてください」
法務官が書面を受け取り、封蝋を押すために走っていった。
アレクシスは、乾きかけた公印に指を触れた。
「止めたから、正しかったとは限らない」
「陛下」
「三人が生きている間に、牢を整え、審理を終えなければならない。もし間に合わなければ、僕の判断で別の危険を生む」
それでも署名を撤回する気はなかった。間違いを恐れて何も決めないことも、王の判断ではない。アレクシスは記録台から手を離し、法務官の背を見送った。
イザベラは、遠ざかる足音を聞きながら言った。
「これで終わりではないわ。収容場所、再審手続き、遺族への説明。法案に書いたものを、全部作る必要がある」
「分かってる。でも、今夜の執行は止まった」
ナターシャが廊下の窓を開けた。冷たい秋の風が、議場に残っていた熱を運び去る。
明日の朝、処刑台へ連れていかれる者はいない。その事実だけは、もう覆らなかった。




