宰相の最期
夏の朝、東塔の医師から報告が届いた。幽閉中のヴィクトール・ド・ガルニエは、数日も持たないという。ナターシャが書面を読み上げた後、尋ねた。
「お嬢様。面会を申請なさいますか」
セレスティアはすぐに答えられなかった。二年前、東塔の最上階でヴィクトールと向き合った。なぜ自分を殺そうとしたのか。なぜ娘まで道具として扱ったのか。尋ねるべきことは尋ね、許せないと告げた。
ヴィクトールは最後まで、自分の行いを秩序のために必要だったと言い切った。あれが、二人の決着だった。
死が近いからといって、もう一度会えば別の答えがもらえるわけではない。弱った相手から穏やかな言葉を引き出しても、それは彼が傷つけた人々への償いにはならない。
そして自分も、死の間際の人間を許せないまま帰る罪悪感から、救われたいだけなのかもしれなかった。
「行かない」
セレスティアは報告書を閉じた。
「話すべきことは、もう話した。あの人も、答えるべきことには答えたから」
ナターシャは理由を尋ねず、書面を受け取った。
「承知しました」
「ただし、医師には最善を尽くすよう伝えて。刑に、治療を怠ることは含まれていない」
「はい」
その夜、ヴィクトールは死んだ。看守の記録には、呼吸が止まった時刻と、立ち会った医師の名が残された。遺言も、誰かを呼ぶ言葉もなかったという。
最後に何を思ったのかは、本人以外にはわからない。それでよいのだと、セレスティアは思った。
人の死は、その人生を都合のよい物語に整えてはくれない。
◇
翌朝、セレスティアはイザベラの執務室を訪ねた。
書面で知らせることもできた。侍従に伝えさせることもできた。けれど、それだけはしたくなかった。
イザベラは机に向かい、地方行政官の任用記録を読んでいた。セレスティアの顔を見ると、紙を伏せた。
「父が死んだのね」
それは問いではなかった。
「昨夜、東塔で」
「そう」
イザベラの表情は変わらない。机の端に置いた指だけが、白くなるほど木を押していた。
「最期には立ち会わなかった。わたしは、二年前の面会で話を終えていたから」
「説明しなくていいわ。あなたが父に何をしても、何をしなくても、わたしが決めることではないもの」
「お墓は、王都の共同墓地になる。爵位を失っているから、ガルニエ家の墓所には入れない」
「わかった」
「行きたければ、手配する」
イザベラは少し考えてから、首を横に振った。
「今は行かない。行って、何を思えばいいのかわからないから」
「思うことを、決めてから行かなくてもいいんじゃない?」
「そうかもしれない。でも、今日は無理」
「うん」
それ以上、慰めの言葉は重ねなかった。父を告発した娘に、悲しむ資格があるなどと言うのも、悲しまなくてよいと言うのも違う。セレスティアは扉へ向かった。
「今夜は、一人にして」
背後から、イザベラの声がした。
「わかった。明日の予定は空けておく」
「空けなくていいわ。明日は来る」
「来られたら来て。来られなければ、それでもいい」
返事はなかった。扉を閉める直前、紙をめくる音がした。仕事を再開したのか、ただ手を動かしていたかったのかは、わからなかった。
◇
翌朝、イザベラは始業の鐘より早く執務室へ来た。
目元は赤かったが、髪も服も普段通り整っている。机の上には、昨日伏せたままだった任用記録が置かれていた。
「おはよう、セレスティア。昨日の続きから始めるわ」
「今日は休んでもいいんだよ」
「休みたい時は自分で言う。今は、ここにいたいの」
セレスティアは向かいの席に座った。しばらく、二人は黙って書類を読んだ。羽根ペンが紙を擦る音だけが続いた。
やがてイザベラが、記録から目を離さずに言った。
「父は、悪い人間だった」
「うん」
「たくさんの人を傷つけた。わたしも、そのために父を告発した。あの判断を後悔していない」
「うん」
イザベラはそこで初めて顔を上げた。
「でも、わたしの父だった」
声は震えていなかった。その代わり、言い終えた後の呼吸がわずかに乱れた。
「それも、否定しなくていい」
「……そうね」
イザベラは任用記録を開き直した。父を許したわけではない。父に教え込まれたものを、すべて捨てられるわけでもない。
残された制度の中から、人を道具として扱う仕組みを一つずつ見つけ、変えていく。それがイザベラの選んだ弔い方なのだろう。
「この任用規則、家柄を評価する項目がまだ残っているわ」
「削ろう。能力と実績で見直す」
「ええ。父が遺した国を、そのままにはしない」
二人は同じ箇所へ印をつけた。窓の外では、夏の光が王都の屋根を照らしていた。




