ルシアンの贖罪
王都から馬車で三日。山間の静かな場所に、小さな町があった。
二年前、王位継承権を放棄したルシアンに、アレクシスは平民教育の拡充を調べる仕事を任せた。最初は王宮で各地の報告書を読む役目だった。
半年後、ルシアン自身が願い出た。「制度が届く先を、自分の目で見たい。子供たちに直接教えたい」と。
この学校は、平民教育と魔力教育開放を地方へ広げるための最初の試みの一つだった。王宮から遠くても、ルシアンの仕事は確かに新しい王国へつながっている。
アレクシスは変装していた。外套のフードを深く被り、護衛はコンラート一人。王の姿ではなく、旅人として。
「陛下。本当に一人で行くのですか」
コンラートが聞いた。
「一人で行く。お前は外で待っていてくれ」
「了解しました。ですが、何かあれば」
「何もない。ルシアンに会いに行くだけだ」
石造りの小さな学校では、庭で子供たちが遊んでいる。教室の窓から声が聞こえた。
「はい。じゃあ、この問題を解いてみましょう。三足す五は?」
聞こえてきた穏やかな声は、ルシアンのものだった。アレクシスは窓の外から、しばらく教室を見守った。
教室には六歳から十歳ほどの子供が十人ほど集まり、ルシアンが黒板の前に立っていた。
若い教師の顔だった。反乱の頃の痩せこけた姿はもうなかった。頬に色が戻り、目に光があった。
「先生、八!」
「正解。じゃあ次は、ちょっと難しいよ。七足す六は?」
「十三!」
「正解。すごいね」
ルシアンが笑っていた。アレクシスの目が潤んだ。
◇
授業が終わった後、学校の裏庭へ回ると、ルシアンが井戸のそばで水を汲んでいた。
「ルシアン」
ルシアンが振り返ると、目を見開いた。
「陛下!」
「静かに。今は旅人だ」
ルシアンが周囲を見回した。誰もいない。
「なぜ、ここに」
「お前に会いに来た。悪いか」
「悪くない。でも、王が一人で三日もかけて」
「一人じゃない。コンラートが外にいる」
「コンラートだけ。護衛が少なすぎます」
「多すぎると目立つ。内緒で来たんだ」
ルシアンの目がまた揺れた。
「内緒」
「セレスティアにはバレてるかもしれないが。あいつの情報網は王を超えている」
二人は小さく笑った。
◇
井戸のそばに座った。二人で。石の縁に腰掛けて。兄弟で。
「ルシアン。元気か」
「元気です。子供たちが、元気をくれるから」
「先生、似合ってるな」
ルシアンの目が少し伏せた。
「似合っているかな。僕に」
「ああ。お前はお前の道を見つけた」
「道」
「王位でも軍でもなく、子供に教えるという道。お前にしかできないことだ」
「僕にしか」
「宰相に操られ、反乱に加担し、全てを失った。その経験を持つ人間が教える。『嘘に騙されないこと』『自分で考えること』。お前にしか教えられない」
ルシアンの目から涙がこぼれた。
「陛下」
「泣くな。僕が困る」
「ごめん。でも」
「でも?」
「嬉しくて。陛下がそう言ってくれて」
アレクシスがルシアンの肩に手を置いた。
「ルシアン。一つ、見せたいものがある」
「見せたいもの」
「お前の教え子の中に、平民出身の魔力持ちの子がいるだろう」
ルシアンの目が光った。
「リーネです。八歳の女の子。火の魔力がある。貧しい農家の子で、以前は魔力教育を受ける手段がなかった」
「その子が来月、王都の魔術学校に編入する」
「え」
「魔力教育開放法。セレスティアが変えた法律のおかげで、平民でも魔術学校に入れる。お前の推薦で、リーネの入学が決まった」
ルシアンの手が震えた。
「リーネが王都に」
「ああ。お前が推薦状を書いた。その推薦状が、あの子の人生を変える」
「僕の推薦状が」
「お前は王位継承権を失った。権力もない。地位もない。だが、一人の教師として、一人の子供の未来を変えた。それは王冠よりも価値がある」
ルシアンの涙が止まらなかった。
「陛下。僕は、良い先生になれているかな」
「ああ。なれている」
「本当に」
「本当だ。セレスティアも言っていた。『ルシアンは自分の場所を見つけた』と」
「セレスティアさまが」
「あいつはお前のことを気にかけている。パンを送ろうとしていたぞ。フリーデリケに頼んで」
「パン」
「フリーデリケのパンだ。うまいぞ。甘すぎるが」
ルシアンが泣きながら笑った。
「甘すぎるパン。食べてみたいな」
「送らせる。来月には届くだろう」
◇
夕方まで二人で話した。子供たちのこと。町のこと。ルシアンの日常。
「陛下。婚礼、おめでとうございます」
「ありがとう。来るか? 婚礼に」
ルシアンの目が揺れた。
「僕が行っていいの。反乱に加担した人間が王の婚礼に」
「家族が婚礼に来る。当然だろう」
「でも、世間が」
「世間がどう言おうとお前は僕の家族だ。セレスティアもそう言っている。『家族でしょう』と」
ルシアンはしばらく黙った。それから頷いた。
「行きます。陛下の婚礼に」
「待っている」
アレクシスが立ち上がった。フードを被り直した。夕日が差し込んでいた。夕方になっていた。話しながら、時間を忘れていた。
「じゃあ帰る。三日かかるからな」
「陛下。また来てくれますか」
「来る。次はセレスティアも連れてくる」
「パンを持って?」
「パンを持って」
二人は笑った。アレクシスが門へ向かって歩き出した。
「陛下」
アレクシスが振り返ると、ルシアンが井戸のそばに立っていた。夕日の中で静かに立っていた。
「ありがとう。来てくれて」
「礼は要らない。家族だからな」
アレクシスが手を振った。ルシアンが手を振り返した。門の外でコンラートが待っていた。
「陛下。お顔が赤いですが」
「泣いてない」
「誰も泣いたとは言っていません」
「……帰るぞ、コンラート」
「はい。三日の旅です。ゆっくり行きましょう」
馬車が走り出した。アレクシスは窓の外を見ていた。小さな町が遠ざかっていく。
「コンラート」
「はい」
「良い旅だった」
「はい。良い旅でした」
夕日が山の向こうに沈んでいった。




