閑話 忠犬は見ている 侍女マルガレーテ視点
私は特別な人間ではない。
マルガレーテ・ヴェーバー。平民出身。四十三歳。アルヴェイン公爵家の侍女を二十年務めている。読み書きはできるが学問はない。剣は持てないし魔術も使えない。政治のことは分からないし、貴族の権力争いは理解の外だ。
私にできるのは、お嬢様の世話をすることだけだ。
朝起こして、服を着替えさせて、髪を梳いて、食事に連れていって、夜は寝かしつける。それが私の仕事であり、私の全てだ。
だからこそ、私には分かることがある。
お嬢様が「変わった」日のことを。
◇
あれは一年前の冬の夜だった。
叫び声で目が覚めた。お嬢様の部屋から。
駆けつけると、三歳のお嬢様がベッドの上で座り込んでいた。小さな身体が震えている。汗で銀髪が額に貼りついている。目は見開かれ、暗闇の中で碧い瞳が異様に光っていた。
「お嬢様、大丈夫ですよ。マルガレーテはここにいます」
抱きしめた。いつものように。子供が悪い夢を見た時は抱きしめるのが一番だ。温もりが恐怖を追い出す。
だがお嬢様の目を見て、私の手が止まった。
あの目は子供の目ではなかった。
恐怖。怒り。悲しみ。絶望。そして――何かを決意した人間の目。
三歳の子供が出す目ではなかった。戦場から帰ってきた兵士の目だ。死を見た人間の目だ。
何が起きたのか分からなかった。悪い夢を見ただけかもしれない。子供は時に、大人のような表情をする。気のせいかもしれない。
だが翌朝から、お嬢様は変わった。
確実に。決定的に。
◇
最初に気づいたのは目の動きだった。
お嬢様は人を観察するようになった。以前は子供らしく、目に入ったものに無邪気に反応していた。花を見れば「きれい」と言い、犬を見れば「わんわん」と指差した。
だがあの夜以降、お嬢様の目は人を見るようになった。
食事を運ぶ使用人を。廊下ですれ違う家臣を。庭を歩く護衛を。一人一人の顔を、まるで品定めするように見る。
三歳の子供が。
特にディートリヒ様を見る目が違った。他の家臣を見る時は観察しているだけだが、ディートリヒ様を見る時だけ、目の奥に冷たいものが光る。
警戒。いや、もっと強い何か。敵を見る目。
三歳の子供がなぜ家宰を敵視するのか。私には分からなかった。ディートリヒ様は穏やかで有能な方だ。少なくとも、そう見えた。
だが結果的に、お嬢様の目は正しかった。
ディートリヒ様は裏切り者だった。奥方様を毒で殺そうとしていた。
お嬢様はそれを見抜いていた。三歳で。
◇
夜泣き。
これが一番辛かった。私にとって、ではない。お嬢様にとって。
毎晩のように、お嬢様は悪夢にうなされた。叫び声。涙。汗。震え。
駆けつけると、首を押さえていることが多かった。小さな手で自分の首を掴み、呼吸を荒くしている。まるで――首を絞められた記憶があるかのように。
あるいは、首を切られた記憶が。
金属音に怯えるのも気になった。使用人が銀食器を落とした時。厨房でナイフが鳴った時。お嬢様は必ず身を竦める。一瞬だけ。だが確実に。
刃物の音が怖いのだ。
なぜ三歳の子供が刃物を恐れるのか。
私には分からない。理由を聞いたこともない。聞く必要がない。
お嬢様が怖い夢を見た時、私がすべきことは一つだ。
抱きしめること。
「大丈夫ですよ、お嬢様。マルガレーテはここにいます」
温かいミルクを淹れる。毛布を掛け直す。額の汗を拭く。
「悪い夢は、マルガレーテが食べてしまいますからね」
子供だましだ。三歳の子供にだって通じないかもしれない。でもお嬢様はいつも、少しだけ笑ってくれた。
「マルガレーテ、おなかこわさない?」
「マルガレーテのお腹は丈夫ですから、大丈夫ですよ」
その笑顔が見たくて、私は毎晩お嬢様の傍にいた。
◇
ナターシャが来た日のことも覚えている。
十二歳の見習い侍女。痩せっぽちで、髪はぼさぼさで、目だけが大きくて落ち着きがない。正直に言えば、最初は不安だった。この子にお嬢様の世話が務まるのかと。
だがお嬢様はナターシャを気に入った。
いや、「気に入った」という言葉では足りない。お嬢様はナターシャを「選んだ」のだ。
お嬢様がナターシャに話しかける時の目。あれは子供が友達を見る目ではなかった。
三歳の子供が、十二歳の少女を「使える」と判断する。
異常だ。どう考えても異常だ。
だがその異常さを、私は怖いとは思わなかった。
なぜなら、お嬢様がナターシャに向ける目には、もう一つの感情があったから。
優しさだ。
お嬢様はナターシャを大切にしている。道具として使うだけではない。花の名前を教え、文字を教え、失敗しても叱らず、良いことをすれば褒める。ナターシャが泣けば慰め、笑えば一緒に笑う。
三歳児が十二歳を育てている。不思議な光景だった。だが不思議と、見ていて温かかった。
お嬢様は冷酷な子供ではない。計算高いところはある。大人のような判断をするところはある。だが根底にあるのは優しさだ。
母を守りたい。家族を守りたい。大切な人を守りたい。
それがお嬢様の全てだ。
◇
奥方様の毒が発覚した日。
私は台所のハーブティーのカップを持って走った。お嬢様が「すてないで」と叫んだから。
理由は聞かなかった。お嬢様がそう言うなら、そうするだけだ。
結果的に、あのカップが証拠になった。フェリクス様が灰銀草を検出した。奥方様を殺そうとしていた毒の証拠。
お嬢様は知っていた。ハーブティーに毒があると。
なぜ知っていたのか。三歳の子供がなぜ毒の存在を予見できたのか。
私には分からない。
夢で見たのか。神に教えられたのか。魂が何かを知っているのか。
どれでもいい。
お嬢様が何を抱えているのか、私には分からない。分からなくていい。
お嬢様が何者であっても――前世の記憶を持つ者でも、神の使いでも、あるいはただの不思議な子供でも――私のすべきことは変わらない。
朝起こして、服を着替えさせて、髪を梳いて、食事に連れていって、夜は寝かしつける。
悪い夢を見たら抱きしめる。温かいミルクを淹れる。「大丈夫ですよ」と言う。
それが私の仕事だ。それが私の全てだ。
◇
聖魔力が覚醒した日。
庭で野犬に襲われた時、お嬢様の手から光が放たれた。白と黒の光。私は後ろによろめいた。衝撃波で花壇が吹き飛んだ。
怖かった。
嘘は言わない。怖かった。
人間の手からあんな光が出るのを見たことがない。あの力が自分に向けられたら、間違いなく死ぬ。
だが怖さは一瞬だった。
光が消えた後のお嬢様の顔を見たから。
震えていた。自分の手を見つめて、震えていた。力を出してしまった恐怖。人を傷つけるかもしれないという恐怖。制御できない何かを抱えてしまった恐怖。
あの顔を見て、私の恐怖は消えた。
代わりに胸が痛んだ。
この子は、こんなものまで背負っているのか。
三歳の小さな身体に、大人でも耐えられないような力と記憶と恐怖を詰め込んで、それでも笑おうとしている。母を守ろうとしている。家族を守ろうとしている。
それなら私がすべきことは決まっている。
お嬢様を守ることだ。
力でも知恵でもない。ただ傍にいること。温かくいること。
お嬢様が泣いた時に涙を拭く手であること。
それだけでいい。それが私の戦い方だ。
◇
お嬢様の四歳の誕生日。
朝食の席で、閣下がブローチを贈った。奥方様が泣いた。フェリクス様が照れくさそうにしていた。ナターシャが花束を持ってきた。
お嬢様が泣いた。幸せそうに泣いた。
あの涙を見て、私も泣いた。堪えたが、無理だった。
二十年間、この家に仕えてきた。
閣下が笑わない方だということは知っている。奥方様が病弱でいらっしゃることも。兄君たちがそれぞれの事情を抱えていることも。この家が決して平穏ではないことも。
だがあの朝の光景は、この家の本来の姿だった。
家族が一緒にいて、笑って、泣いて、贈り物をして、「おめでとう」を言う。
当たり前のことが、当たり前にできている。
お嬢様が来るまで、この家にはなかった光景だ。
あの不思議な三歳の――今は四歳のお嬢様が、この家を変えた。
私は特別な人間ではない。
政治も魔術も分からない。公爵家の権力争いに口を挟む立場にもない。
だが「この子を守る」という決意だけは、公爵にも騎士にも、誰にも負けないと思っている。
お嬢様。
あなたが何者であっても。何を抱えていても。
マルガレーテはあなたの味方です。
何があっても。いつまでも。
悪い夢は、全部食べてしまいますから。
だから安心して眠ってください。
マルガレーテはここにいます。ずっと。




