17歳の春
目が覚めると、窓からオレンジ色の朝日が差し込んでいた。春の朝らしい、温かな光だった。
フリーデリケから届いた枕元の花束が、部屋をラベンダーの香りで満たしている。
体を起こした。伸びをした。悪夢は見なかった。
昨夜も。一昨日も。その前の夜も。もう何日も、悪夢を見ていない。
「何年ぶりだろう。悪夢のない朝は」
誰に聞かせるでもなく、その言葉を口にした。
三歳から十六歳までの十三年間、毎晩のように見ていた悪夢がある。処刑台、鎖の音、斧の光、青い空、断頭台の刃、そして群衆の声。それが消えた。
◇
鏡を見た。十七歳の顔。
鏡には銀色の髪と碧い目が映っている。髪には、誕生日にアレクシスから贈られた銀のラベンダーの飾りをつけた。「いつもつけてほしい」と言われてから、毎日欠かしていない。
「おはよう、十七歳のわたし」
鏡の中の自分に微笑んだ。
◇
扉をノックした。
「お嬢様。おはようございます」
ナターシャの声がした。
「おはよう、ナターシャ。入って」
扉が開き、ナターシャがトレイを持って入ってきた。蜂蜜入りの紅茶とパンケーキ、果物が載っている。
「今日はお誕生日ですので、マルガレーテがパンケーキを焼きました」
「なんで?」
「十七歳の春だからだそうです。春はパンケーキの季節だと」
「マルガレーテの季節感は独特だね」
「はい。でも、おいしいです」
蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキは、甘くて温かかった。
紅茶も、いつもの味、いつもの温度、いつもの甘さだった。
「おいしい」
「いつも通りです」
「ナターシャ。今日の予定は」
「午前。アレクシス陛下との会議。婚礼の日程について」
「婚礼」
心臓がとくん、と鳴った。
「午後。ヴィオレッタさまとの貴族院準備。夕方。フェリクスさまの地脈報告。夜は」
「空いてる?」
「空けてあります。石段の時間です」
「ナターシャが決めたの?」
「お嬢様の日程に石段の時間は必須です。健康管理の一環として」
「健康管理」
「心の健康です。石段に座る時間が足りないと、お嬢様の目が疲れます」
「そんな記録があるの?」
「十四年間の観察結果です」
セレスティアは笑った。
◇
午前中は、アレクシスとの会議。だが、「会議」という雰囲気ではなかった。コンラートが外で待っている。ナターシャも廊下にいる。でも部屋の中は二人だけだ。
アレクシスの私室で、二人きりになった。テーブルには書類が広げてあるが、どちらも見ていなかった。
「婚礼の日程。春がいいと思う」
「春。なぜ」
「春はわたしにとって、複雑な季節だから。だから、春に新しい意味を足したい」
アレクシスが頷いた。
「分かった。春にしよう。三月がいい」
「三月。なぜ三月」
「お前の誕生日の翌日だ。十八歳になったお前が、最初に新しい朝を迎える日になる」
胸の奥で、固く結んでいたものがほどけた。
「覚えてるの。あの時のことを」
「忘れるわけがない。五歳の女の子が、王宮の大広間で震えながら、それでもまっすぐに礼をした。僕が手を差し出したら、泣きそうな顔で握り返してくれた」
「そんな顔をしていた? わたし」
「ああ。怖がっているのに逃げなかった。あの時からお前は強かった」
「面白い」
「ああ。世界で一番」
セレスティアの頬が赤くなった。
「陛下」
「アレクシスでいいと」
「アレクシス。婚礼の話なのに。なんで思い出話になるの」
「思い出話も婚礼の一部だ。僕たちの始まりを、確認しておきたかった。どこから来たか、忘れたくないから」
「始まり」
「政略だった。でも、今は違う」
アレクシスがセレスティアの手を取った。
「セレスティア。僕はお前と結婚する。政治のためじゃない。お前と一緒に生きたいからだ」
「わたしも」
「わたしも。アレクシスと一緒に生きたい。この国を作りたい。子供を育てたい。おじいさんとおばあさんになるまで」
「おじいさんとおばあさん。また言ったな」
「言うよ。何度でも」
アレクシスが笑った。
「三月。春の婚礼。楽しみだ」
「わたしも」
二人は手を繋いだまま、しばらく黙っていた。書類は結局、半分しか進まなかった。
◇
夕方、セレスティアは石段に座った。春風が花の匂いを運んでくる。石段は少し冷たかったが、日差しは温かかった。
フリーデリケからの手紙を読み返していた。もう三度目だ。でも何度読んでも飽きない。
『セレスティアさま。ご婚礼が春に決まったと聞きました。おめでとうございます。
わたし、絶対に行きます。何があっても。雪でも嵐でも。
パンを焼いていきます。婚礼用の特別なパン。ハート型の完璧なやつ。
あ、でもやっぱり少し歪ませます。完璧すぎるとわたしらしくないので。フリーデリケより。
追伸。石段の席、まだありますか。婚礼の前日に一緒に座りたいです。最後の石段ランチ。王妃になったら、もう石段でパンは食べられないかもしれないから。』
セレスティアの胸が締めつけられた。王妃になれば、石段でパンを食べる時間は減るかもしれない。それでも、あの場所まで手放すつもりはなかった。
「なくならないよ、フリーデリケ」
返事を書く代わりに、セレスティアは手紙を胸元へしまった。春の風が髪を揺らし、アレクシスがくれた銀のラベンダーが光る。
石段を離れる前に、もう一度だけ振り返った。明日もここへ来られるように、婚礼のあともこの席を残せるように。そう決めてから、セレスティアは屋敷の明かりへ歩き出した。




