16歳の終わり
三月十四日、春先の朝。十六歳最後の日を迎えた。明日には十七歳になる。目覚めても悪夢の名残はなく、もう何日も見ていなかった。
枕元には、フリーデリケから届いた温室育ちのラベンダーが香っている。窓を開けると、温かな春風が入ってきた。
「いい天気」
呟いた。それだけで幸せだった。
◇
朝食。一人で食べた。家族はそれぞれの場所で忙しい。
父は領地、母は社交、エドヴァルトは妻ベアトリクスの元、フェリクスは研究所にいる。一人の朝食だったが、寂しくはなかった。
マルガレーテが作ったパンケーキ。蜂蜜入り。温かい。
「マルガレーテ。いつもありがとう」
「いつものことです」
◇
王宮へ向かう道では、ヴォルフが三歩前を歩き、ナターシャが半歩後ろに続いた。いつもの三人で、いつもの道を進んだ。
春の花が街路に咲いていた。白い花。紫の花。名前の知らない黄色い花。
「お嬢様。今日の予定です」
ナターシャが手帳を開いた。
「午前。イザベラ嬢との行政会議。午後。貴族院の委員会出席。夕方。フェリクスさまとの地脈報告。夜。空いています」
「夜が空いてる。珍しいね」
「空けました。十六歳最後の夜ですから」
「ナターシャが空けてくれたの?」
「侍女の特権です」
セレスティアは笑った。
◇
午前中は、イザベラとの会議。行政改革の進捗。
「選抜議席の第二期候補者リスト、完成しました。十二名の候補のうち、五名が平民出身。七名が下級貴族」
「平民の比率が上がってるね」
「実力で選べば自然とそうなります。血統に関係なく、才能は分散していますから」
「イザベラ。あなたの仕事は、この国を変えてる」
「三度目よ。お世辞は一度で十分って言ったでしょう」
「お世辞じゃないって」
「分かってるわ。分かってるから、困るのよ」
イザベラが少しだけ笑った。
◇
午後は貴族院の委員会に出席し、死刑制度の見直しに関する予備審議へ臨んだ。
セレスティアが提案した。「死刑の廃止。終身幽閉を最高刑とする」
反発はあった。だが、以前ほどではなかった。
「宰相ですら処刑されなかった。反乱の首謀者マティアスは処刑されたが、あれは例外的措置だった。今後は処刑に頼らない」
シュテルン伯爵が支持した。「時代は変わる。この国は、変わらなければならない」
予備審議は通過した。正式な法案化は来年。
◇
夕方。フェリクスとの報告。
「地脈の回復速度、予想以上だ。このペースなら百年以内に完全回復する可能性がある」
「百年。わたしたちが生きている間に?」
「八十歳まで生きれば晩年に結果を見届けられるかもしれない」
「八十歳か。おばあさんだね」
「おばあさんでも研究は続ける。僕は」
「にいさまは八十歳になっても眼鏡を曇らせてそうだね」
「湿度は年齢に関係ない」
「関係あるよ。涙腺が緩くなるから」
「科学的に否定する」
「科学的に肯定されてるよ。加齢による涙腺機能の変化は」
「……黙れ」
笑った。兄妹で。
◇
夜、一人で石段に座った。
フリーデリケは領地に。リディアは外交で南方に。アネリーゼは神殿に。コンラートは王宮の警備に。ポケットに手紙がある。フリーデリケから。
『セレスティアさま。春のラベンダーが咲きました。去年より多いです。丘が紫色になりました。きれいです。
石段の席、夏に行きます。待っていてくださいね。パンをたくさん持っていきます。新作もあります。フリーデリケより。
追伸。ハート型のパン、完璧に焼けるようになりました。でもセレスティアさまに送るのは、わざと少し歪ませます。その方がわたしらしいから。』
リディアから。
『セレスティアさま。南方は暖かいです。故国の花が咲いていました。泣きませんでした。もう、泣かなくなりました。
春には必ず戻ります。報告書とお土産を持って。リディアより。』アネリーゼから。
『セレスティアさま。神殿の生徒が五人に増えました。みんな光を見ると目を輝かせます。わたしも初めて光を見た時、そうでした。
今度お茶をしましょう。わたしの淹れるお茶はナターシャさんには敵いませんが。アネリーゼより。』
コンラートから。手紙ではなく、口頭で。
「石段にいるのか。寒くないか」
「寒くない。春だから」
「干し肉あるぞ」
「いる」
コンラートが石段の隣に座った。干し肉を渡した。二人で食べた。
「コンラート。明日で十七歳になるの」
「知ってる。一日早いが、おめでとう」
「ありがとう」
「来年も干し肉だからな」
「来年も楽しみにしてる」
コンラートが立ち上がった。
「じゃあな。警備に戻る」
「行ってらっしゃい」
コンラートが歩き去ると、また一人になった。手元には、誰かがくれたパンとチーズ、干し果物、干し肉がある。一つずつ口に運ぶと、どれもおいしかった。
◇
空を見上げた。星が出ていた。春の星座。明日から十七歳。
「もう大丈夫」
声にすると、その言葉は思ったより軽く夜へ溶けた。完全に消えたわけではない。それでも、明日の朝を迎えるための足場にはなる。
セレスティアは食べ残した包みを丁寧に畳み、石段を下りた。月明かりの下には、パンの匂いと花の香り、干し肉の塩気がまだ残っていた。




