セレスティアの手紙
夜、部屋にはセレスティア一人だけが残った。ナターシャは下がり、ヴォルフは扉の外にいる。机の上には、白い便箋とインク壺、ペンを並べてあった。
日記帳ではない。分析ノートでもない。手紙を書こうと思った。
宛先のない手紙。届けられない手紙。前世の自分に。
◇
ペンを取った。しばらく白い紙を見つめていた。
何を書けばいい。十八歳で死んだ自分に。冤罪で。孤独で。誰も助けに来られなくて。
あの自分に何を伝えればいい。インクにペンを浸した。書き始めた。
◇
『十八歳のわたしへ。
あなたは殺された。冤罪で。孤独の中で。青い空の下で。
誰も助けに来られなかった。家族も。友人も。婚約者も。
処刑台の上で、あなたは世界を恨んだ。恨んで当然だった。
あなたは何も悪くなかった。ただ運命に翻弄されただけ。宰相の策略に嵌められただけ。力のない少女が、巨大な政治の歯車に挟まれて、潰されただけ。
あなたの怒りは正しかった。あなたの恐怖は正しかった。あなたの悲しみは正しかった。
わたしはあなたの全てを受け継いで、三歳に戻った。
怒りを。恐怖を。悲しみを。そして、あなたが最後に思った「もう二度と」を。
三歳のわたしは泣いた。最初の夜。ベッドの中で。
何も分からなかった。なぜ三歳に戻ったのか。何をすればいいのか。この世界があの世界と同じなのか、違うのか。
でも一つだけ分かった。もう二度と殺されない。殺させない。
あなたの怒りがわたしを動かした。三歳からの十三年間。走り続けた。
宰相と戦い、毒を防ぎ、暗殺を避け、仲間を集めた。婚約し、法律を変え、反乱を鎮め、地脈も救った。全部、あなたの怒りが原動力だった。
あなたが死ななかったら、わたしは生まれなかった。あなたの死がわたしの始まりだった。
それは残酷な事実。あなたの苦しみの上に、わたしの人生がある。
ごめんなさい。あなたの痛みを、踏み台にして。でも、あなたの痛みは無駄ではなかった。
わたしはあなたが失ったものを、全て取り戻した。
家族。母は健在で、わたしを抱きしめてくれる。父は寡黙で、でも手紙をくれた。兄たちは不器用で、温かくて、いつも傍にいる。
仲間。ナターシャは十三年間、紅茶を淹れ続けてくれた。ヴォルフは十三年間、扉の前を守り続けてくれた。フリーデリケはパンを焼いて、ラベンダーを送ってくれた。
コンラートは剣で守ってくれた。アネリーゼは光で癒してくれた。ヴィオレッタは扇で戦ってくれた。リディアは言葉で平和を紡いでくれた。イザベラは父の側に立たされていたのに、今は自分の意志で隣にいる。
フェリクスお兄様は、眼鏡を曇らせながら世界を解き明かしてくれた。
そしてアレクシス。あなたが最後に恨んだ少年は、今世ではわたしの手を握って、「好きだ」と言ってくれた。
あなたが恨んだ世界は、もう存在しない。わたしが書き換えたから。
処刑はもうない。この国では。死刑制度の廃止を来年、法案にする。
あなたが死んだ処刑台は、もう使われない。あなたの死は最後の処刑になる。
十八歳のわたしへ。あなたはもう、怒らなくていい。恨まなくていい。
あなたが守れなかったものはわたしが守った。
あなたが変えられなかった世界はわたしが変えた。
あなたの代わりにわたしが、生きている。ありがとう。あなたの怒りが、わたしを強くしてくれた。
あなたの恐怖が、わたしを慎重にしてくれた。
あなたの悲しみが、わたしを優しくしてくれた。もう大丈夫。
安心して。眠って。あなたが死んだ世界は、もう存在しない。
わたしが書き換えたから。三歳のわたしより。
いいえ。十六歳の、セレスティアより。』
◇
ペンを置いて初めて、便箋が涙で滲んでいることに気づいた。いつから泣いていたのだろう。手紙を一度、二度、三度と読み返し、丁寧に三つ折りにした。
届ける宛先がないため、封筒には入れなかった。セレスティアは立ち上がり、暖炉の前へ歩いた。
火が静かに燃えていた。春の夜。暖炉にはもう火は要らない時期だが、今夜だけナターシャが焚いてくれていた。
手紙を暖炉にかざした。火が紙の端に触れた。
燃え始めた。白い便箋がオレンジ色に染まっていく。文字が炎に溶けていく。
「さようなら」
吐息に紛れそうな声で、そっと呟いた。
「ありがとう。もう、大丈夫」
手紙が灰になった。白い灰。暖炉の中で崩れていく。
◇
振り返った。窓の外に朝日が昇り始めていた。
いつの間に夜が明けていた。手紙を書くのに一晩かかっていた。
朝日。オレンジ色の光が、部屋を照らした。扉をノックする音がした。
「お嬢様。朝です」
ナターシャの声。
「うん。起きてる」
扉が開いた。ナターシャが入ってきた。紅茶のトレイを持って。
ナターシャはセレスティアの泣いた跡と暖炉の灰、窓から差す朝日を見て、何も尋ねなかった。
「おはようございます。お嬢様」
「おはよう。ナターシャ」
「紅茶をどうぞ。蜂蜜入りです」
「ありがとう」
紅茶を受け取って飲むと、今日もいつも通り温かく、甘かった。
「おいしい」
「いつも通りです」
暖炉の灰を見た。もう何も残っていない。手紙は消えた。
「ナターシャ」
「はい」
「今日はいい日になりそう」
「毎日がいい日です。お嬢様が元気なら」
セレスティアは笑った。




