母への告白
春の午後、公爵邸にある母の部屋では、リリアーナが窓辺の椅子に座って刺繍をしていた。
白い布の端に、小さな紫の花が並んでいる。最後の一輪だけ、まだ輪郭しかなかった。
セレスティアは扉を叩いた。
「お母様。入ってもいい?」
「もちろんよ」
母の隣に腰を下ろすと、リリアーナは針を布へ刺したまま、娘の顔を見た。
「大事な話があるのね」
「まだ何も言っていないのに」
「あなたは覚悟を決めると、背筋がいつもより少しだけ伸びるもの」
昔から、母の目だけは誤魔化せない。
セレスティアは膝の上で両手を組んだ。
「わたし、怖い夢を見るの」
リリアーナは驚かなかった。針を刺繍台へ戻し、聞くための姿勢になった。
「前にも話してくれた、処刑される夢?」
「うん。あの時は、それしか言えなかった。今日は、もう少しだけ話したい」
「聞くわ」
セレスティアは、窓の外へ目を向けた。春の空は青く、雲ひとつない。その色まで、夢の中の空と同じに見える日がある。
「夢の中のわたしは、十八歳なの。王太子暗殺未遂の罪を着せられて、断頭台へ連れていかれる。何もしていないのに、誰にも信じてもらえない」
言葉にするたび、首筋に冷たい板の感触が戻ってきた。
「家族も、友達も、誰もそばにいない。空だけがきれいで……そのことが、いちばん怖い」
リリアーナの手が、そっと重なった。続きを促すことも、止めることもせず、ただそこにあった。
「その夢が、三歳の頃からずっと続いているの。毎年、春になるとひどくなる。だからわたしは、先に知ろうとした。失わないように、間に合うように」
母を守ろうとしたこと。宰相の動きを追ったこと。処刑という制度そのものを変えようとしていること。
そこまでは話せた。
けれど、その夢を一度生きた記憶だとは、まだ言えなかった。
「セレスティア。その夢は、ただの夢なの?」
母の問いは静かだった。答えを奪うためではなく、娘がどこまで話せるかを確かめるような声だった。
セレスティアは唇を開き、閉じた。
「……わからない。今は、これ以上うまく言えないの」
情けない答えだと思った。ここまで来ても、まだ本当のことを口にできない。
けれどリリアーナは、落胆した顔をしなかった。
「なら、今日はここまでにしましょう」
「聞かないの?」
「聞きたいわ。母親ですもの。でも、知りたいことと、無理に聞き出してよいことは別でしょう」
リリアーナは刺繍台を膝へ戻した。
「話せるところまで話してくれた。それで十分よ。続きがあるなら、あなたが言葉にできる日に聞かせて」
針が白い布をくぐった。紫の糸が引かれ、最後の花びらが少しだけ歪んだ。
「あら。失敗したわ」
「ほどく?」
「いいえ。このままにする。きれいに揃った花の中に、一つくらい形の違うものがあってもいいでしょう」
母は何気なく言ったのだろう。
それでもセレスティアには、その言葉が胸の奥まで届いた。
「お母様」
「なに?」
「夢の中では、お母様もいなかったの」
リリアーナの指が止まった。
「だから、今ここにいるのが、時々信じられないくらいうれしい」
母は何も問い返さず、セレスティアの手を握った。強くはない。逃げたければ逃げられるほどの力だった。
けれど、セレスティアは手を引かなかった。
「わたしはここにいるわ」
「うん」
「明日もいる。その次の日も。だから、急がなくていいの」
セレスティアは頷いた。
全部は言えなかった。それでも、秘密を覆っていた布の端を、初めて自分の手で持ち上げた。
帰り際、リリアーナは刺繍の途中の布を見せた。
「完成したら、あなたにあげるわ」
「いつ完成する?」
「あなたが続きを話す日までには」
「それ、急かしている?」
「まさか。わたくしは刺繍が遅いのよ」
母が笑い、セレスティアも少し遅れて笑った。
扉の外へ出ても、胸の震えは残っていた。けれど、それはもう断頭台の恐怖だけではなかった。
いつか続きを話せるかもしれない。
そう思える場所が、ここにあった。




