貴族院改革法案
貴族院改革法案が可決された。だが、可決と施行は違う。
法案が紙の上で通っても、現実に落とし込むには、膨大な作業が必要だった。
改革の柱は、世襲議席の半減と実力選抜議席の創設だ。五十二議席のうち二十六席を、世襲から実力選抜へ切り替える。
「二十六家が議席を失う。……議場では『空席が出た議席から順に』と説明しました。あれで通った」
イザベラが問いかけた。行政官としての冷静な目。
執務室では、セレスティア、イザベラ、ヴィオレッタ、ナターシャの四人が会議を開いていた。
「通ったのは、いつ終わるか誰にも読めないからです。二十六席が入れ替わるまで四十年か、六十年か。保守派はあれを『自分が生きている間は何も起きない』と読みました」
「読ませたのよ」
ヴィオレッタが扇を開いた。
「そう読ませなければ、あの法案は通らなかった。一気に二十六席を削ると言えば、また暗殺未遂のような反発が起きるわ。誰かから『奪う』のではなく、空いた席を『変える』だけ。だから止める理由が作れない」
「でも実際には終わります」
「終わるわ。ゆっくりだけど、確実に。それが厄介なところ」
セレスティアは頷いた。
問題は速度だ。議場で言った「今年動くのは十議席」は、自然退任の見込みが立っている分だけ。その先が読めていない。
イザベラがメモを取った。
「懸念があります。保守派が引退を先延ばしにする可能性がある。議席を守るために」
「対策は?」
「議員の定年制。七十歳で退任を義務化する。これは別の法案として提出する必要がある」
「定年制。また反発が来るわね」
「来ます。でも地脈の衰退を公表した後なら。『国が変わらなければ五十年後に魔力が消える』という事実は、保守派の論拠を弱める」
セレスティアはイザベラの目を見た。
「イザベラ。あなたがいなかったら、この改革は回らない」
「お世辞はいらないわ。事実を述べているだけ」
「事実よ。お世辞じゃなく」
イザベラの耳が僅かに赤くなった。
「……次の議題に行きましょう」
◇
実力選抜議席の選抜方法。これが最も難しい問題だった。
「選挙は、この国にはまだ早い」
セレスティアが言った。
「選挙制度を導入するには、識字率の向上、選挙区の設定、投票所の整備。五年はかかる」
「じゃあ、どうするの」
「推薦と試験の組み合わせ。第一段階として。各地域の有力者が候補を推薦し、候補者は筆記試験と面接を受ける」
「面接。誰がやるの」
「選考委員会を設置する。委員は国王、貴族院議長、大神官、そして平民代表」
「平民代表」
ヴィオレッタの目が光った。
「初めてね。平民が、貴族院の人事に関わるのは」
「初めてだから慎重に。平民代表は、各都市の商工会議長から選出。実績のある人物を」
ナターシャが口を開いた。
「商工会議長の名簿は、わたくしの方で準備できます。王都と主要五都市の」
「ありがとう、ナターシャ」
「ただし、一つ懸念があります」
「何?」
「推薦制は有力者の影響力に左右される。宰相がやったことと、構造的に同じになる危険がある」
鋭い指摘だった。セレスティアは考えた。
「推薦者を複数にする。一人の推薦では候補にならない。三名以上の推薦を要件にする。一人の有力者が操作できないように」
「三名。誰が推薦できるの」
「地域の住民。一定の条件を満たした納税者、あるいは公職経験者」
イザベラが素早く計算した。
「推薦要件、試験科目、選考委員の構成。細則をまとめます。三日ください」
「三日。早いわね」
「父の行政機構の設計図が頭に入っていますから。骨格を作り替えるだけです」
「イザベラ」
「何?」
「やっぱり、あなたがいなかったら回らない」
「二度目。お世辞は一度で十分よ」
「お世辞じゃないって言ってるのに」
ヴィオレッタが扇の陰で笑った。
◇
会議が終わったあとも、ヴィオレッタだけは部屋に残った。
「セレスティア。少し話があるの」
「何?」
「保守派の動き、気になることがあるわ」
ヴィオレッタは扇を閉じ、真剣な目を向けた。
「法案可決後、保守派の中で、二つの派閥に分裂が起きている」
「二つ?」
「一つはグライナー男爵のような強硬派。暗殺や実力行使で改革を止めようとする。こちらはもう力を失った。グライナーの逮捕で、残りは萎縮している」
「もう一つは?」
「穏健保守派。改革を受け入れつつ、自分たちの権益を最大限守ろうとする。こちらの方が厄介よ」
「表立って反対しない分、動きを読みづらいのね」
「穏健保守派は表面上は改革に賛成している。でも裏では、実力選抜議席の選考委員会に自分たちの息のかかった人間を送り込もうとしている」
「選考委員を押さえて、入口から制度を変えるつもりなのね」
「そう。制度そのものを使って、制度の目的を骨抜きにする。宰相がやっていたことと同じ構造よ」
セレスティアの目が鋭くなった。
「分かった。選考委員の選出方法に、もう一層の防壁が必要ね」
「わたしが中立派の中から信頼できる人物を選んでおく。穏健保守派の浸透を防ぐために」
「ヴィオレッタ。情報戦は得意?」
「得意よ。扇の裏で人を見るのは、小さい頃からの習慣」
ヴィオレッタは扇を開きながら微笑んだ。
「任せて。セレスティアは前を走って。わたしは横から守るわ」
「あなたが、わたしの側面を守ってくれるの?」
「あなたは正面突破が得意でしょう。でも横からの攻撃には弱い。わたしが側面を守る」
「ヴィオレッタ」
「前世で告発した相手を、今世では守る。面白い運命ね」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「面白いかどうかは分からない。でも、嬉しい」
「嬉しい?」
「ヴィオレッタが味方でいてくれることが。心強い」
ヴィオレッタの扇が少し揺れた。
「……お世辞は一度で十分よ」
「イザベラと同じこと言わないで」
二人で笑った。
◇
六週間後、第一回の実力選抜試験は失敗に終わった。
答案を採点し終えたイザベラが、結果表を机に置いた。上位三十名。全員が貴族家の書記か、王立学院の卒業生だった。平民の候補者は、一人も面接へ進めなかった。
「採点に不正はありません」
イザベラの声は平静だった。だが結果表を押さえる指に、力が入っていた。
「出題したのは、貴族院法、宮廷文書の形式、過去の議決例。仕事には必要な知識です。でも、学ぶ場所を持っていたのは最初から貴族側だけだった。同じ問題を配っただけで、同じ条件にはなっていません」
「公平な試験を作ったつもりだった」
セレスティアの言葉に、ヴィオレッタが扇を閉じた。
「扉は誰にでも開けたわ。でも鍵の置き場所を知っていたのは、扉の内側にいた人だけ。これでは保守派が細工をしなくても、結果は同じね」
ナターシャは、候補者から届いた問い合わせを並べた。
店を三日閉めて王都まで来た商人。収穫期の村を離れた農地管理人。旅費を借りて受験した職人。再試験になれば、もう一度来られない者もいる。
「制度の失敗は、紙の上だけでは終わりません。先に負担を払うのは、余裕のない方々です」
その言葉が一番痛かった。セレスティアは結果表を裏返した。
「この試験は無効にする。設計を誤ったのは、わたしたちだと公表する。受験者の旅費は国庫から返す。次の試験まで、基礎科目の講習を各都市で開く」
「最初の十席は、少なくとも二か月空いたままになります」
イザベラが告げた。
「分かってる」
保守派からは、改革派には統治能力がないと笑われた。平民の候補者からは、結局は貴族のための試験だったと責められた。返還費用を認めるため、別の事業の開始もひと月遅れた。
そして、一度目の試験を受けた候補者のうち、二度目には戻らなかった者もいた。
ナターシャが最後に置いた封筒は、他のものより紙が粗かった。封を開くと、折り目から薄い木屑が一片、黒い机へ落ちた。
「北東部で小さな工房を営む、ヨーゼフという木工職人からです。仕事の合間に書いたのでしょう」
文字は細く、ところどころインクが掠れていた。
『最初の試験のため、工房を七日閉めました。その間に納めるはずだった戸棚が遅れ、次の注文は別の工房へ回されました。返していただいた旅費で、借りた金は返せます。ありがとうございます』
そこで一度、文章が途切れていた。次の行には、前より濃いインクで続きが書かれている。
『再試験の日には、椅子を六脚納めます。今度も遅れれば、工房を畳まなければなりません。ですから王都へは行けません。次に受ける人には、試験の前に、学ぶための本を渡してあげてください』
セレスティアは最後の一行を、もう一度読んだ。
旅費だけでなく、休業によって失った収入も補償の対象に加えた。ヨーゼフ本人には、試験を設計した責任者として謝罪の返書を書いた。しかし、失った注文を元の工房へ戻せと、国が命じることはできない。
二度目の試験の日、ヨーゼフのために用意されていた席は空いたままだった。
それでも、間違った試験の合格者を、そのまま議員にはできなかった。
◇
その夜、セレスティアはアレクシスの私室を訪れ、第一回試験を無効にしたことを報告した。アレクシスはすべてを聞いたあと、頷いた。
「中止の告知には、誰の名を出した」
「わたしの名を。責任者だから」
「次は、同じ間違いをしないか」
「別の間違いはすると思う」
アレクシスが僅かに目を見開いた。
「でも、隠さない。イザベラは数字の偏りを見つける。ヴィオレッタは、制度の外から見える穴を探す。ナターシャは、その穴に落ちる人が誰かを教えてくれる。わたしは、止めてやり直す決断をする」
「完璧な仕組みを作るとは言わないんだな」
「もう言えない。今日、失敗したから」
「そうか」
アレクシスは結果表を閉じた。
「なら、失敗したことまで含めて国に見せろ。成功だけを並べる王より、その方が信用できる」
「うん」
「お前たち四人が組むとは、一年前は想像もしなかった」
「わたしも。でも、今は想像できない方が不思議」
アレクシスが窓の外を見た。
「セレスティア。この改革が完成したら、この国はお前が『前世』と呼ぶ記憶の中で死んだ国とは、完全に別の国になる」
セレスティアの体が凍った。
「前世?」
「ああ。僕は知っている。お前が何かを背負っていること。前世という言葉を、時々、漏らすこと」
心臓が壊れそうに速くなった。
「陛下。いつから」
「いつからか分からない。でも、アネリーゼが教えてくれたんじゃない。ヴォルフが漏らしたんじゃない。お前自身が、時々、言うんだ。無意識に」
「わたしが」
「『前世では一人で死んだ』。あの日、処刑日に震えていた後。ナターシャが報告してくれた。お前が呟いていたと」
セレスティアの目から涙が溢れた。
「陛下。わたし」
「説明しなくていい」
アレクシスがセレスティアの手を取った。
「前世が何であれ。お前が何を背負っていても。僕は、今のセレスティアの隣にいる。それだけだ」
「それだけ」
「それだけで十分だろう。お前が話したくなったら聞く。話したくなければ聞かない。お前の家族と同じだ。知っていて聞かない」
「陛下」
「アレクシスでいい。二人きりだ」
「アレクシス。ありがとう」
「礼は要らない。当たり前のことだ」
「当たり前が一番ありがたい」
アレクシスが笑った。
「お前は本当に、いい言葉を持っている」
「わたしの言葉じゃない。みんなからもらった言葉」
二人が手を繋いだまま過ごす秋の夜、窓の外には月が出ていた。




