16歳の誓い
春先、セレスティア・フォン・アルヴェインは十六歳になった。
前世の自分は十八歳で死んだ。今の十六歳という年齢は、その処刑まであと二年に当たる。
それでも十六歳の誕生日の朝、心臓が一瞬だけ縮んだ。
体が覚えている。「十八歳で死ぬ」という記憶を。
あと二年、という数字を。
◇
朝、目を開けた。ラベンダーの匂い。枕元に紫の花束。フリーデリケから。毎月届く花の、今月分がちょうど誕生日に届いた。
偶然か。いや、フリーデリケのことだ。計算して送ったに違いない。あの子は、こういう時だけ、恐ろしく正確になる。手紙が添えられていた。
『おたんじょうびおめでとうございます、セレスティアさま。
十六歳ですね。わたしも十六歳になりました。大人ですね。でもパンを焼く時にまだ火加減を間違えます。大人って何でしょう。
温室で育てた今年のラベンダーは特別です。去年植えた苗が初めて花をつけました。一年かけて根を張って、やっと咲いた花です。
セレスティアさまも、一年かけて、たくさん咲かせましたね。地脈の儀式。改革法案。たくさんの花を。
でもお花は咲いた後が大事です。種を落として、次の花を咲かせるから。
だからセレスティアさまも、咲いた後は、ちゃんと休んでくださいね。
石段の席、まだ空いていますか。冬に一度、王都に行きます。その時は、一緒にパンを食べましょう。フリーデリケより。
追伸。くるみと蜂蜜のパンを同封します。誕生日なので、特別に、ハート型です。形が少し歪んでいるのは仕様です。ハートは難しいです。』
箱を開けると、ハート型のパンが入っていた。確かに左側が膨らみすぎ、右側が凹んで歪んでいる。その形がおかしくて、朝から笑った。
「フリーデリケ。ハートは難しいね」
パンを一口かじった。甘かった。くるみの香ばしさと蜂蜜の柔らかさ。フリーデリケの味。悪くない。
◇
朝食は家族で。公爵邸の食堂。全員が揃うのは珍しかった。
父。母。エドヴァルト。フェリクス。セレスティア。
マルガレーテがパンケーキを焼いた。誕生日のパンケーキ。蜂蜜と果物をたっぷり乗せて。
「十六歳、おめでとう、セレスティア」
父が言った。短く。だが、目が揺るがなかった。
「ありがとう、お父さま」
母が花冠を載せた。セレスティアの頭に。紫と白の小花で編んだ、小さな冠。
「お母様。これ、子供っぽくない?」
「子供っぽくていいの。今日だけは、わたくしの小さなセレスでいなさい」
「小さなセレス。もう十六歳なんだけど」
「何歳になっても、お母様にとっては、小さなセレスよ」
エドヴァルトがプレゼントを渡した。革の手袋。
「これは」
「乗馬用だ。お前、最近馬に乗ってないだろう。たまには体を動かせ。書類ばかりじゃ体が錆びる」
「お兄様。ありがとう」
フェリクスが本を渡した。
「また本?」
「いや。今回は違う」
題のない革表紙を開くと、中の頁はすべて白紙だった。
「白紙?」
「日記帳だ。お前のノートは、もう二十冊を超えたろう。情報と分析ばかりの。これは、違う用途のために」
「違う用途」
「感じたことを書け。分析じゃなく。嬉しかったこと。悲しかったこと。怖かったこと。パンがおいしかったこと。何でもいい」
セレスティアの目が潤んだ。
「にいさま」
「兄として、妹の感情を守る義務がある。科学では証明できないが、直感的にそう思う」
「にいさまの直感は、珍しいけど、信頼できる」
「当然だ。記録の蓄積が直感の精度を上げる」
「それ、直感じゃなくて分析だよ」
「細かいことは気にするな」
笑った。家族全員で。マルガレーテのパンケーキを食べた。甘かった。静かだった。
◇
午後。王宮。アレクシスが待っていた。
「誕生日おめでとう、セレスティア」
「ありがとう、陛下」
「アレクシスでいいと」
「二人きりの時はね。今は、廊下」
アレクシスが周囲を見回した。侍従が三人。近衛騎士が二人。
「……陛下で」
「うん」
アレクシスが小さな箱を差し出した。
「プレゼント」
「開けて」
箱を開けた。銀の髪飾り。繊細な細工。ラベンダーの花をモチーフにした、小さなピン。
「きれい」
「ラベンダーが好きだろう。銀細工師に頼んだ。二ヶ月かかった」
「二ヶ月。ずいぶん前から準備してたんだね」
アレクシスの耳が赤くなった。
「別に。たまたま。時間がかかっただけで」
「ありがとう。大事にする」
髪に留めた。銀の細工が、セレスティアの銀色の髪に光った。
「似合う」
アレクシスが呟いた。
「え?」
「似合うと思う。その。髪飾り」
「ありがとう」
「……」
沈黙。耳が赤い。セレスティアは笑った。
「陛下。顔が赤いよ」
「赤くない。廊下が暑いだけだ」
「春先なのに?」
「春先でも日が差す廊下は暑い。気象学的に」
「にいさまみたいなこと言わないで」
二人で笑った。廊下に笑い声が響いた。侍従たちが微笑んでいた。
◇
夕方、石段へ座った時には一人ではなく、コンラートが隣にいた。
「よう。誕生日おめでとう」
「ありがとう、コンラート」
コンラートが紙包みを差し出した。
「プレゼントではない。ただの、差し入れだ」
「差し入れ?」
開けた。干し肉。
「干し肉」
「騎士団で人気の干し肉だ。パンケーキばかり食ってないで、たまには肉を食え」
「コンラートらしい」
「何がだ」
「プレゼントが干し肉なところ」
「プレゼントじゃない。差し入れだ」
「同じだよ」
セレスティアが干し肉をかじった。塩辛い。だが、おいしかった。コンラートが隣に座った。
「十六歳か。早いな」
「早い。九歳の時、石段で話すようになってから、七年」
「七年。あの頃のお前は小さかった。石段に座って、丸いパンを食ってた」
「フリーデリケのパンね」
「ああ。あの頃から、お前は変わらないな」
「変わったよ。たくさん」
「変わったのは、やってることだ。お前自身は変わっていない。石段に座って、パンを食って、仲間を信じて。それは、あの頃と同じだ」
セレスティアはコンラートの横顔を見た。七年前の少年は、今、十八歳の青年になっている。顎の線が鋭くなった。肩幅が広くなった。目が深くなった。
「コンラートも変わったよ」
「俺か? どこが」
「強くなった。外も中も」
コンラートが目を逸らした。
「……お前に言われると、困る」
「なんで」
「何でもない。干し肉、もう一切れ食うか」
「食べる」
二人は夕日に照らされた石段で、干し肉を分け合った。
「コンラート」
「ん」
「ありがとう。七年間」
「礼は要らない。俺の仕事だ」
「仕事じゃないよ。友達だから」
コンラートの手が、膝の上で、握られた。
「……友達、か」
「うん。大事な友達」
コンラートは何も言わなかった。夕日が石段を照らしていた。二人の影が、長く伸びていた。
◇
夜、部屋へ戻ると、フェリクスがくれた日記帳の白紙の一頁目を開き、ペンを取った。
分析ではなく、今の感情をどう書けばいいのか。しばらく考えてから、ペンを動かした。
『十六歳になった。
今朝、歪んだハートのパンを食べた。おいしかった。
家族でパンケーキを食べた。甘かった。
アレクシスにラベンダーの髪飾りをもらった。きれいだった。
コンラートに干し肉をもらった。塩辛かった。
ナターシャの紅茶を飲んだ。深かった。十六歳のセレスティアより。』
書き終えてから、セレスティアはもう一度その頁を読み返した。分析も予測もない。あるのはパンケーキの甘さ、干し肉の塩辛さ、髪飾りの輝きと、贈ってくれた人たちの名だけだった。
十六歳の日記の一頁目を、初めて未来の計算ではなく、今日生きていた自分の記録で埋めることができた。




