ヘルマンの引退
セレスティアが回復して一ヶ月。魔力は完全には戻っていなかったが、日常生活に支障はなく、執務にも復帰した。その初日、机の上には書類が山積みになっていた。
「イザベラが処理してくれたんじゃ」
「処理済みの書類です。お嬢様の確認印が必要なものだけ残してあります」
ナターシャが淡々と言った。
「確認印だけで、この量?」
「一ヶ月分ですから」
溜息をついた。だが、嫌ではなかった。
◇
その日の夕方、ヘルマンが訪ねてきた。白髪と深い皺を持つ公爵家の筆頭家臣は、いつも穏やかな目をしている。だが今日は、そこに決意が浮かんでいた。
「お嬢様。お話があります」
「どうぞ。座って」
「いえ。立ったまま申し上げます」
ヘルマンが背筋を伸ばした。
「本日をもちまして筆頭家臣の職を退きたく存じます」
セレスティアの手が止まった。
「ヘルマン」
「老齢です。体がついていかなくなりました。お嬢様のお傍で十二年間お仕えしましたが、ここが、潮時でございます」
ヘルマンの動きが遅くなり、書類を読む時に目を細め、朝の挨拶だけで息を切らすことがあるのは分かっていた。それでも、聞きたくなかった。
「ヘルマン。もう少し、一緒に」
「お嬢様。わがままを言わせてください。引退は、わたくしの最後のわがままです」
セレスティアは唇を噛んだ。断れるはずがなかった。
「……分かった。でも、最後に。話を聞かせて」
「話」
「ヘルマンがわたしに仕え始めた時のこと。三歳の頃の」
ヘルマンの目が遠くなった。
「お嬢様が三歳の頃。覚えております。鮮明に」
椅子を勧めた。今度はヘルマンも座った。
「わたくしが公爵家に仕え始めたのは、お嬢様が生まれる前。先代、お父上の代からです」
「父の」
「はい。公爵閣下に仕えて二十年。そしてお嬢様が生まれた」
ヘルマンが微笑んだ。
「三歳のお嬢様は不思議な子でした」
「不思議」
「目が大人の目でした。三歳の子供の目ではなかった」
セレスティアの心臓が締まった。
「最初にお嬢様とお話しした日のことを覚えていますか」
「覚えてる。ヘルマンがお花を持ってきてくれた」
「ラベンダーです。庭から摘んで。三歳のお嬢様が、ラベンダーを見て泣いたのです」
「泣いた」
「わたくしは驚きました。花を見て泣く子供は珍しくない。だがあの涙は、子供の涙ではなかった。大人が、何かを思い出して流す涙でした」
「……」
「あの時、わたくしは誓いました。この子を守ろうと。この子が何を背負っているか分からない。でも何かを背負っている。ならば傍にいて、支えようと」
ヘルマンの声が震えた。
「十二年間。お嬢様の目を見てきました。あの大人の目が少しずつ、変わっていきました」
「変わった?」
「三歳の頃は怖がっていた。五歳の頃は決意に満ちていた。九歳の頃は疲れていた。十一歳の頃は怒りがあった。十三歳の頃は悲しみがあった」
「……」
「そして今、十五歳のお嬢様の目は」
ヘルマンがセレスティアの目を真っ直ぐに見た。
「穏やかです。強さと穏やかさが、同居しています。もう三歳の頃のような怯えはない」
涙がこぼれた。セレスティアの。
「ヘルマン」
「お嬢様。わたくしは、お嬢様が何を背負っているか、一度もお聞きしませんでした」
「うん」
「聞かなくても分かることがありました。お嬢様は失いたくないものを守るために戦っていた。それが全てでした」
「十分」
「はい。筆頭家臣として、お嬢様が走る後ろで、書類を整え、来客を捌き、予算を管理し。地味な仕事です。華やかではない。でも」
「でも」
「お嬢様が走れたのは、後ろが守られていたからです。わたくしはその役割を果たせたと思っています」
セレスティアは立ち上がってヘルマンの前へ歩み寄り、深く頭を下げた。
「ありがとう。ヘルマンおじさま」
ヘルマンの目が見開かれた。ヘルマンの涙がこぼれた。
「お嬢様」
「おじさま。あなたがいなかったら、わたしは走れなかった。書類も。予算も。来客も。全部、おじさまが守ってくれた」
「お嬢様。その呼び方は」
「今日だけ。最後だから。おじさまって呼ばせて」
ヘルマンは何も言えず、涙を止められなかった。二人はしばらく、言葉もなく泣いた。
◇
落ち着いた後。ヘルマンが一通の封筒を差し出した。
「これは」
「情報網の引き継ぎ先についての推薦書です。ニコラスを推薦します」
「ニコラス」
ニコラス。情報屋。かつてセレスティアが雇った、有能な調査員。今は公爵家と正式に契約を結んだ協力者になっている。
「ニコラスは情報に長けていますが、それだけではありません。事務能力も高い。人の管理もできる。何よりお嬢様への信頼が本物です」
「ヘルマンが推薦するなら間違いない」
「ありがとうございます。最後に、もう一つ」
ヘルマンがもう一通、封筒を出した。
「これはお父上から預かっているものです」
「父から?」
「公爵閣下が五年前に、わたくしに託しました。『セレスティアが十五歳になったら渡してくれ』と」
セレスティアの手が震えた。父の手紙。五年前に書かれた。
封を開けた。短い手紙。父の筆跡。不器用な、だが丁寧な字。
「セレスティアへ。
十五歳になったお前に、伝えたいことがある。
お前が生まれた日、私は怖かった。聖魔力を持つ子供が生まれた。この国で、聖魔力がどう扱われるか知っていた。封印の議論があることも。
私はお前を守ると決めた。封印させないと。お前の力はお前のものだ。誰にも奪わせない。
お前は三歳の頃から不思議な子だった。何かを知っているような目をしていた。何を知っているのか、私には分からない。聞く気もない。
お前が何を背負っていてもお前は私の娘だ。走りなさい。お前が走りたい方へ。
走った後は帰ってきなさい。父より。」
涙が止まらなかった。
「お父さま」
ヘルマンが静かに立っていた。
「公爵閣下は寡黙な方です。でもお嬢様のことを、誰よりも見ています」
「知ってる。知ってた。でも」
「でも?」
「手紙で読むと、また泣ける」
「泣いてください。最後のわたくしの仕事です。お嬢様のハンカチを用意すること」
ヘルマンが白いハンカチを差し出した。アイロンがかかっている。公爵家の紋章が刺繍されている。いつも通りの完璧な仕事。
セレスティアはハンカチを受け取って泣いた。
◇
翌日、公爵邸の食堂でヘルマンの送別会が開かれ、家族全員が集まった。
父。母。エドヴァルト。フェリクス。セレスティア。ナターシャ。ヴォルフ。マルガレーテ。
マルガレーテが料理を作った。ヘルマンの好物。質素な、だが温かい料理。
「ヘルマン。長い間、ありがとう」
父は潤んだ目で短く労い、母はラベンダーの花束を渡した。
「ヘルマンさん。あなたがいなかったら、この家は回りませんでした」
エドヴァルトが握手した。
「ヘルマン。俺が継いだら、いつでも遊びに来い。客室を一つ、お前の名前にしておく」
フェリクスが本を渡した。
「先日出版された農業技術の論文集です。引退後に読んでください。感想を聞かせてほしい」
「フェリクスさまらしい贈り物ですな」
「実用性を重視しました」
マルガレーテがパンケーキを持ってきた。
「泣いた日のパンケーキです」
「わたしは泣いていませんよ、マルガレーテ」
「泣いていなくても、お別れの日は甘いものを。アルヴェイン家の伝統です」
ヘルマンはパンケーキを食べた。
「甘い」
「はい。いつも通りです」
ヘルマンの目から涙がこぼれた。
「……いつも通りが一番、ありがたいものですな」
全員が頷いた。食堂に温かい空気が満ちていた。
◇
送別会の後。玄関でヘルマンが立った。荷物は少なかった。
「では、行ってまいります」
「行ってらっしゃい。また、帰ってきてね」
「帰ってくる場所を残しておいてくださいますか」
「いつでも。ここは、おじさまの家でもあるから」
ヘルマンは深く礼をすると、公爵邸の門を出て、石畳の道を歩き始めた。
振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだから。
セレスティアは門の前に立って、見送った。ヘルマンの背中が小さくなっていく。
「ありがとう」
その言葉を自分の胸にも刻むように、静かに呟いた。聞こえていないはずだった。
でもヘルマンが、遠くで一度だけ手を振った。見えていた。
セレスティアは手を振り返した。涙を拭かずに。
ヘルマンの姿が見えなくなるまで立っていた。




