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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
第9章 若き王と改革の代償

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ヘルマンの引退

 セレスティアが回復して一ヶ月。魔力は完全には戻っていなかったが、日常生活に支障はなく、執務にも復帰した。その初日、机の上には書類が山積みになっていた。


 「イザベラが処理してくれたんじゃ」


 「処理済みの書類です。お嬢様の確認印が必要なものだけ残してあります」


 ナターシャが淡々と言った。


 「確認印だけで、この量?」


 「一ヶ月分ですから」


 溜息をついた。だが、嫌ではなかった。


 ◇


 その日の夕方、ヘルマンが訪ねてきた。白髪と深い皺を持つ公爵家の筆頭家臣は、いつも穏やかな目をしている。だが今日は、そこに決意が浮かんでいた。


 「お嬢様。お話があります」


 「どうぞ。座って」


 「いえ。立ったまま申し上げます」


 ヘルマンが背筋を伸ばした。


 「本日をもちまして筆頭家臣の職を退きたく存じます」


 セレスティアの手が止まった。


 「ヘルマン」


 「老齢です。体がついていかなくなりました。お嬢様のお傍で十二年間お仕えしましたが、ここが、潮時でございます」


 ヘルマンの動きが遅くなり、書類を読む時に目を細め、朝の挨拶だけで息を切らすことがあるのは分かっていた。それでも、聞きたくなかった。


 「ヘルマン。もう少し、一緒に」


 「お嬢様。わがままを言わせてください。引退は、わたくしの最後のわがままです」


 セレスティアは唇を噛んだ。断れるはずがなかった。


 「……分かった。でも、最後に。話を聞かせて」


 「話」


 「ヘルマンがわたしに仕え始めた時のこと。三歳の頃の」


 ヘルマンの目が遠くなった。


 「お嬢様が三歳の頃。覚えております。鮮明に」


 椅子を勧めた。今度はヘルマンも座った。


 「わたくしが公爵家に仕え始めたのは、お嬢様が生まれる前。先代、お父上の代からです」


 「父の」


 「はい。公爵閣下に仕えて二十年。そしてお嬢様が生まれた」


 ヘルマンが微笑んだ。


 「三歳のお嬢様は不思議な子でした」


 「不思議」


 「目が大人の目でした。三歳の子供の目ではなかった」


 セレスティアの心臓が締まった。


 「最初にお嬢様とお話しした日のことを覚えていますか」


 「覚えてる。ヘルマンがお花を持ってきてくれた」


 「ラベンダーです。庭から摘んで。三歳のお嬢様が、ラベンダーを見て泣いたのです」


 「泣いた」


 「わたくしは驚きました。花を見て泣く子供は珍しくない。だがあの涙は、子供の涙ではなかった。大人が、何かを思い出して流す涙でした」


 「……」


 「あの時、わたくしは誓いました。この子を守ろうと。この子が何を背負っているか分からない。でも何かを背負っている。ならば傍にいて、支えようと」


 ヘルマンの声が震えた。


 「十二年間。お嬢様の目を見てきました。あの大人の目が少しずつ、変わっていきました」


 「変わった?」


 「三歳の頃は怖がっていた。五歳の頃は決意に満ちていた。九歳の頃は疲れていた。十一歳の頃は怒りがあった。十三歳の頃は悲しみがあった」


 「……」


 「そして今、十五歳のお嬢様の目は」


 ヘルマンがセレスティアの目を真っ直ぐに見た。


 「穏やかです。強さと穏やかさが、同居しています。もう三歳の頃のような怯えはない」


 涙がこぼれた。セレスティアの。


 「ヘルマン」


 「お嬢様。わたくしは、お嬢様が何を背負っているか、一度もお聞きしませんでした」


 「うん」


 「聞かなくても分かることがありました。お嬢様は失いたくないものを守るために戦っていた。それが全てでした」


 「十分」


 「はい。筆頭家臣として、お嬢様が走る後ろで、書類を整え、来客を捌き、予算を管理し。地味な仕事です。華やかではない。でも」


 「でも」


 「お嬢様が走れたのは、後ろが守られていたからです。わたくしはその役割を果たせたと思っています」


 セレスティアは立ち上がってヘルマンの前へ歩み寄り、深く頭を下げた。


 「ありがとう。ヘルマンおじさま」


 ヘルマンの目が見開かれた。ヘルマンの涙がこぼれた。


 「お嬢様」


 「おじさま。あなたがいなかったら、わたしは走れなかった。書類も。予算も。来客も。全部、おじさまが守ってくれた」


 「お嬢様。その呼び方は」


 「今日だけ。最後だから。おじさまって呼ばせて」


 ヘルマンは何も言えず、涙を止められなかった。二人はしばらく、言葉もなく泣いた。


 ◇


 落ち着いた後。ヘルマンが一通の封筒を差し出した。


 「これは」


 「情報網の引き継ぎ先についての推薦書です。ニコラスを推薦します」


 「ニコラス」


 ニコラス。情報屋。かつてセレスティアが雇った、有能な調査員。今は公爵家と正式に契約を結んだ協力者になっている。


 「ニコラスは情報に長けていますが、それだけではありません。事務能力も高い。人の管理もできる。何よりお嬢様への信頼が本物です」


 「ヘルマンが推薦するなら間違いない」


 「ありがとうございます。最後に、もう一つ」


 ヘルマンがもう一通、封筒を出した。


 「これはお父上から預かっているものです」


 「父から?」


 「公爵閣下が五年前に、わたくしに託しました。『セレスティアが十五歳になったら渡してくれ』と」


 セレスティアの手が震えた。父の手紙。五年前に書かれた。


 封を開けた。短い手紙。父の筆跡。不器用な、だが丁寧な字。


 「セレスティアへ。


 十五歳になったお前に、伝えたいことがある。


 お前が生まれた日、私は怖かった。聖魔力を持つ子供が生まれた。この国で、聖魔力がどう扱われるか知っていた。封印の議論があることも。


 私はお前を守ると決めた。封印させないと。お前の力はお前のものだ。誰にも奪わせない。


 お前は三歳の頃から不思議な子だった。何かを知っているような目をしていた。何を知っているのか、私には分からない。聞く気もない。


 お前が何を背負っていてもお前は私の娘だ。走りなさい。お前が走りたい方へ。


 走った後は帰ってきなさい。父より。」


 涙が止まらなかった。


 「お父さま」


 ヘルマンが静かに立っていた。


 「公爵閣下は寡黙な方です。でもお嬢様のことを、誰よりも見ています」


 「知ってる。知ってた。でも」


 「でも?」


 「手紙で読むと、また泣ける」


 「泣いてください。最後のわたくしの仕事です。お嬢様のハンカチを用意すること」


 ヘルマンが白いハンカチを差し出した。アイロンがかかっている。公爵家の紋章が刺繍されている。いつも通りの完璧な仕事。


 セレスティアはハンカチを受け取って泣いた。


 ◇


 翌日、公爵邸の食堂でヘルマンの送別会が開かれ、家族全員が集まった。


 父。母。エドヴァルト。フェリクス。セレスティア。ナターシャ。ヴォルフ。マルガレーテ。


 マルガレーテが料理を作った。ヘルマンの好物。質素な、だが温かい料理。


 「ヘルマン。長い間、ありがとう」


 父は潤んだ目で短く労い、母はラベンダーの花束を渡した。


 「ヘルマンさん。あなたがいなかったら、この家は回りませんでした」


 エドヴァルトが握手した。


 「ヘルマン。俺が継いだら、いつでも遊びに来い。客室を一つ、お前の名前にしておく」


 フェリクスが本を渡した。


 「先日出版された農業技術の論文集です。引退後に読んでください。感想を聞かせてほしい」


 「フェリクスさまらしい贈り物ですな」


 「実用性を重視しました」


 マルガレーテがパンケーキを持ってきた。


 「泣いた日のパンケーキです」


 「わたしは泣いていませんよ、マルガレーテ」


 「泣いていなくても、お別れの日は甘いものを。アルヴェイン家の伝統です」


 ヘルマンはパンケーキを食べた。


 「甘い」


 「はい。いつも通りです」


 ヘルマンの目から涙がこぼれた。


 「……いつも通りが一番、ありがたいものですな」


 全員が頷いた。食堂に温かい空気が満ちていた。


 ◇


 送別会の後。玄関でヘルマンが立った。荷物は少なかった。


 「では、行ってまいります」


 「行ってらっしゃい。また、帰ってきてね」


 「帰ってくる場所を残しておいてくださいますか」


 「いつでも。ここは、おじさまの家でもあるから」


 ヘルマンは深く礼をすると、公爵邸の門を出て、石畳の道を歩き始めた。


 振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだから。


 セレスティアは門の前に立って、見送った。ヘルマンの背中が小さくなっていく。


 「ありがとう」


 その言葉を自分の胸にも刻むように、静かに呟いた。聞こえていないはずだった。


 でもヘルマンが、遠くで一度だけ手を振った。見えていた。


 セレスティアは手を振り返した。涙を拭かずに。


 ヘルマンの姿が見えなくなるまで立っていた。


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