オスヴァルトの遺産
目が覚めた。白い天井に柔らかいベッド、ラベンダーの匂い。そこは自分の部屋ではなく、王宮の医務室だった。
「お嬢様」
ナターシャの声。すぐ傍に。
「ナターシャ。わたし、どのくらい」
「三日間。眠っていました」
「三日」
体が重かった。指先を動かすだけで疲れる。
「魔力はほぼ空です。回復に二週間はかかると、アネリーゼさまが」
「二週間も、何もしないで?」
「その間、何もしなくていいです。全てナターシャが」
「書類が」
「イザベラ嬢が処理しています。ヴィオレッタさまが貴族院を。リディアさまが外交を。お嬢様が倒れた翌日に、三人で分担を決めました」
セレスティアの目が潤んだ。
「みんなが、わたしの仕事を引き受けてくれたのね」
「はい。お嬢様が眠っている間も、世界は回っていました。お嬢様が作った仕組みが、お嬢様なしでも動く」
「わたしなしでも、動く」
「はい。ですから、安心して休んでください」
ナターシャが蜂蜜入りの温かい紅茶を差し出したが、震える手ではカップを持てなかった。
「持ちます」
ナターシャがカップを支えた。唇に当てた。甘かった。温かかった。三日ぶりの味。
「おいしい」
「いつも通りです」
◇
午後になると、オスヴァルト先生が見舞いに訪れた。
杖をついて。白髪の老人。だが、背筋は伸びていた。
「目が覚めたか。三日間は長かったな」
「先生。ご心配をおかけしました」
「心配はしていない。儀式の前に計算した。『三日で目覚める』と。計算通りだ」
「三日間の意識不明まで、計算通りだったのですか」
「ああ。フェリクスは『三日は長すぎる』と騒いでいたが、私の計算では三日が妥当だった。賭けに勝ったな」
「わたしの意識が戻る日を賭けにしたのですか」
「学者の性だ。許してくれ」
オスヴァルトがベッドの傍の椅子に座ると、セレスティアは先生の顔を見つめた。
老いていた。前より、さらに。儀式の日から三日しか経っていないのに、十年分老けたように見えた。
「先生。お体は」
「私のことはいい。話がある」
オスヴァルトが鞄から書類を取り出した。分厚い束。表紙に「聖魔力制御論 完全版」と書かれている。
もう一束。「地脈長期回復計画 百年の展望」。
「これは」
「私の最後の研究だ」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「最後の研究だなんて、言わないでください」
「聖魔力の完全な制御マニュアル。お前が経験した全ての技術を体系化した。五歳から十五歳までの十年間の記録と理論。次の聖魔力の持ち主が生まれた時、この書があれば、お前のように十年かけなくても制御を学べる」
「いつか生まれる、次の聖魔力の持ち主のために?」
「百年に一人かもしれない。千年に一人かもしれない。だが、いつか生まれる。その時に、お前の経験が道標になる」
セレスティアは書類を受け取った。重かった。
「もう一つ。地脈の長期回復計画。お前の儀式で五十年の猶予を得た。だが、五十年では足りない。その先の計画が必要だ」
「先生が作ってくれたんですか」
「私とフェリクスの共同研究だ。フェリクスは優秀な学者だ。私の後を継げる」
「にいさまが、先生の研究を継ぐのですね」
「私は引退する。年だ。体がついていかない」
「先生。わたしに、出会えてよかったと思いますか」
オスヴァルトの目が細くなった。
「何を今更。お前に出会えてよかったに決まっている」
「本当に、そう思ってくださっているんですか」
「聖魔力が、恐怖ではなく希望だと証明してくれた。お前がだ。十年間かけて」
オスヴァルトは窓の外へ目を向けた。
「私は長い間、聖魔力を恐れていた。制御できない力。暴走すれば国を滅ぼす力。だから、封じるべきだと思っていた」
「力ごと、その人の人生を封じるつもりだったのですか」
「お前が生まれる四年前だ。聖魔力の持ち主が現れたら封じるべきだという議論が王宮であった。同じ年に、聖魔力の研究は全て国家機密に指定された。宰相の指示でな。私の論文も、ヨハンの遺稿も取り上げられた。……私はあの時、反対しなかった」
オスヴァルトは窓から目を離さなかった。
「お前が三つの時、公爵はお前の魔力を知った。そして、どこにも上げなかった。屋敷の中の数人にだけ伝えて、そこで止めた。王宮にも、神殿にも」
セレスティアの目から涙がこぼれた。
「お父様が、誰にも報告しなかったから……」
「あの年に一言でも漏れていれば、宰相の手が先に届いていた。お前は三歳で封印されていたかもしれん。聖魔力を失い、普通の少女として、あるいは力を失った抜け殻として育っていたかもしれない」
「先生は、どうしてそれを」
「お前が八つの、学年末の実技試験の後だ。私は公爵に書面を出した。呼ばれて、一度だけ聞いた。『娘の力は、娘自身のものだ。封じる権利は誰にもない』と」
「お父様がそんな話をしていたなんて、知りませんでした」
「知らなくていい。親というのは、そういうものだ。子供に言わずに、守る」
「先生。この書類、大切にします」
「大切にしろ。だが、棚に飾るな。使え。次の世代に繋げ」
「繋げます」
「フェリクスによろしく伝えてくれ。あいつは私の最も優秀な弟子だ。本人には言わないが」
「言わないんですか」
「言ったら調子に乗る」
「にいさまは調子に乗らないタイプですよ」
「乗らないタイプだからこそ、言わない。調子に乗らない人間に『優秀だ』と言うと、重荷になる。あいつは褒められるより、結果で示す方が性に合っている」
「先生。にいさまのこと、よく分かってますね」
「十年間見てきた。弟子というのは、子供のようなものだ」
オスヴァルトが立ち上がった。杖をついて。
「元気でな。セレスティア」
「先生も」
「私はもう少し、元気でいるつもりだ。引退しても死ぬわけではない。庭でも耕しながら論文を書く」
「庭を耕しながら論文。忙しい引退ですね」
「暇な引退は性に合わない」
オスヴァルトが扉に向かった。
「先生」
振り返った。
「ありがとうございました。十年間」
オスヴァルトは何も言わず、ただ小さく頷いた。それだけで十分だった。彼が部屋を出て扉が閉まると、セレスティアは書類を胸に抱いた。
「聖魔力制御論 完全版」。「地脈長期回復計画 百年の展望」。
◇
夕方には、フェリクスが本を三冊抱えて訪ねてきた。けれど本を開くことなく、ベッドの傍に座った。
「目が覚めたか」
「うん。三日、長かった?」
「長かった。僕の人生で最も長い三日間だった」
「にいさま。オスヴァルト先生が、にいさまに伝言」
「何と」
「先生の最も優秀な弟子だって」
フェリクスの眼鏡が曇った。
「先生が」
「でも本人には言わないって。調子に乗るからって」
「……僕は調子に乗らない」
「わたしもそう言った」
「……先生は」
フェリクスが本を膝に置いた。
「先生はいつも、遠くから見ていた。近くに来ない。褒めない。でも、必要な時は必ずいた」
「にいさまと似てるね」
「似ていない。僕は、もっと不器用だ」
「不器用なところが似てる」
フェリクスはすぐには答えず、妹の顔を見つめていた。
「セレス。二週間、休め。書類のことは考えるな」
「にいさまもナターシャと同じこと言う」
「ナターシャさんの判断は科学的に正しい」
「科学じゃなくて、心配でしょう」
「……心配だ。科学者として認める」
セレスティアは兄の手を握った。
「ありがとう、にいさま」
「礼は要らない。兄だから」
「兄だからこそ、ありがとう」
フェリクスの眼鏡がまた曇った。
「湿度」
「はいはい。湿度だね」
二人で笑った。窓の外に夕日が沈んでいた。




