グレーテルとの別れ
グレーテルが引退する。その知らせを聞いたのは、告白の翌日だった。
オスヴァルト先生経由で。「グレーテル先生が今月末で魔力教師を辞めるそうだ。本人の意思だ」
セレスティアは驚かなかった。グレーテルの体調が優れないことは知っていた。最近の授業では、椅子に座ったまま指導することが増えていた。咳が増えていた。
だが、覚悟していても、受け入れるのは別だった。
◇
魔力訓練場にセレスティアが初めて来たのは、八歳の時だった。
グレーテルが待っていた。赤銅色の髪を一つに結び、厳しい目で立っていた女性。
「あなたが聖魔力の持ち主ね。見せてごらんなさい」
八歳のセレスティアは手のひらに光を灯した。不安定に揺れる、白い光。
グレーテルは言った。「力はある。でも制御がなっていない。ゼロからやり直しよ」。そう告げられてから、七年が過ぎた。
聖魔力の制御、光と闇の二重属性の切り替え、防御結界、攻撃魔術、治癒の補助。その全てをグレーテルが教えた。指導は厳しく、妥協がなかった。
「もう一度」「もう一度」「もう一度」、何百回も聞いた言葉。
でも授業の後にはいつも、温かいお茶を淹れてくれた。蜂蜜は入れない。グレーテルの好みはミントだった。
「ミントは頭を冴えさせるのよ。魔術師に必要なのは冷静さ」
◇
そして今日、訓練場にグレーテルがいた。椅子に座る彼女の赤銅色の髪には、七年前にはなかった白いものが混じっている。
「来たわね。セレスティア」
「グレーテル先生。引退するって、本当ですか」
「本当よ。もう教えることはないもの」
「教えることがない、と」
「あなたは私を超えた。とっくに。聖魔力の制御は完璧。二重属性の切り替えも瞬時。防御結界の強度は王国随一。もう、先生は要らないわ」
セレスティアは首を振った。
「先生はまだ」
「セレスティア。聞きなさい」
グレーテルの声が柔らかかった。いつもの厳しさが溶けていた。
「私は魔力教師として三十年間、多くの生徒を教えてきた。貴族の子弟。才能ある若者。中には天才もいた」
「……」
「でもあなたは天才とは違った」
「違った?」
「天才は力で押し切る。あなたは力を制御する。制御することを選ぶ。それは天才ではなく、覚悟よ」
グレーテルがゆっくりと立ち上がった。膝が少し震えていた。
セレスティアが支えようと手を伸ばすと、グレーテルは手で制した。
「大丈夫。まだ、立てるわ」
グレーテルが訓練場の中央まで歩き、セレスティアも後に続いた。七年前と同じ位置で、二人は向かい合った。
「最後に一つだけ。教えたいことがある」
「何ですか」
「力を制御するのは技術じゃない」
「技術じゃない?」
「心よ」
グレーテルが、セレスティアの心臓の上へ手を当てた。
「ここにあるもの。あなたが大切にしているもの。守りたいもの。それが、力の制御の源」
心臓が鳴った。とくん。
「技術は教えられる。でも心は教えられない。あなたの心はあなたが十二年間かけて育てたもの。私が教えたのではない」
「先生」
「だからもう教えることはないの。あなたの心は、あなただけのもの。私が触れる場所ではない」
セレスティアの目に涙が滲んだ。
「先生。わたしの魔力が怖くなくなったのは、先生のおかげです」
「怖くなくなった?」
「聖魔力は最初、怖かった。自分の中に、制御できない力がある。暴走したら誰かを傷つける。それが怖かった」
「……覚えているわ。八歳のあなたが『この力、消せますか』と聞いた時のこと」
「先生は何て答えたか覚えてますか」
「覚えている。『消す必要はない。使い方を覚えなさい』と」
「あの言葉がわたしの七年を決めた」
グレーテルの目が潤んだ。
「セレスティア。あなたに出会えてよかった」
「先生」
「聖魔力が恐怖ではなく希望だと証明してくれた。あなたが。七年間かけて」
セレスティアの涙がこぼれた。
「先生。引退しても、たまに会いに来ていいですか」
「来なさい。ミントティーくらいは淹れてあげるわ」
「蜂蜜は」
「入れないわよ。ミントに蜂蜜は邪道」
「ナターシャの紅茶は蜂蜜入りなんですけど」
「ナターシャさんとは趣味が違うのよ。でも、あの子の紅茶は認めている。淹れ方が丁寧」
「伝えます」
「伝えなくていいわ。本人に言ったら照れるでしょう」
セレスティアは泣きながら笑った。
「先生。最後にもう一度だけ」
「何を」
「『もう一度』って言ってください」
グレーテルが目を丸くした。それから笑った。
「もう一度」
「はい」
「もう一度。あなたの力を、見せなさい」
セレスティアが手のひらを広げた。光が灯った。
現れた白い光は、八歳の時とは違っていた。安定した、温かく力強い光が、壁も天井も、グレーテルの白髪交じりの赤銅色の髪も照らした。
「……きれい」
グレーテルが呟いた。
「八歳の時の光は不安定で、怯えていた。でも今の光は」
「今の光は?」
「優しい。あなたの心と同じ」
光がゆっくりと消えた。訓練場に、夕方の光が差し込んだ。
「さようなら、先生」
「さようならじゃないわ。また来なさい。ミントティーの約束」
「はい。必ず」
扉に向かった。
「セレスティア」
振り返ると、グレーテルが夕日の差す訓練場の中央に立っていた。
「地脈の儀式、気をつけなさい。力の制御は完璧でも体の限界は別よ。無理はしないこと」
「はい。先生に教わった通り。心で制御します」
「よろしい。それでこそ、私の最後の生徒」
グレーテルが笑った。セレスティアは扉を閉めた。
廊下へ出ると、セレスティアは泣いた。ヴォルフは何も言わず、傍に立っていた。しばらく泣いたあと、セレスティアは涙を拭った。
「行こう。まだ、やることがある」
「はい」
セレスティアは再び歩き出した。心臓が、とくんと鳴った。




