暗殺未遂
夜の王宮、その回廊。セレスティアは遅くまで執務室にいた。貴族院改革法案の可決後、施行に向けた細則を整え、ヴァルトシュタイン子爵と書簡を交わし、イザベラが作成した行政機構の移行計画書を確認していたのだ。
「お嬢様。もう深夜です」
ナターシャの声。
「もう少し」
「明日にしてください。今日は十分に働きました」
「あと三枚」
「三枚は明日の朝、三分で読めます。お嬢様の処理速度なら」
セレスティアはペンを置いた。
「分かった。帰る」
「お部屋までお送りします」
廊下に出た。ヴォルフが三歩前を歩いている。いつも通り。
夜の王宮は静かだった。松明の光が壁に影を落としている。足音だけが響く。
◇
それは中庭に面した回廊を曲がった時だった。ヴォルフの足が止まった。一瞬の静止。
「下がってください」
低い声。だが、鋭い。セレスティアの体が動く前に、ヴォルフが身を翻した。
闇の中から何かが飛んできた。短剣。回廊の柱の影から投げられた。
ヴォルフの剣が短剣を弾いた。金属音が廊下に響いた。
「ナターシャ。お嬢様を」
「はい」
ナターシャがセレスティアの腕を掴んだ。壁際に引いた。
柱の影から、黒衣をまとい、顔を布で隠した二人の人影が動いた。ヴォルフは即座に前へ出て剣を抜いた。
◇
一人目が短剣を構えて飛び出した。ヴォルフの剣が、セレスティアの目にも追えない速さで一閃する。
一人目の短剣が弾かれ、手首を打たれ、武器を落とした。だが二人目が別の方向から迫った。
ヴォルフは一人目を制圧しながら、二人目に対応しようとした。
間に合わない。二人同時は。セレスティアの心臓が跳ねた。
だが、二人目の刃が届くより早く、横から別の影が飛び込んだ。
赤い髪の女性。黒い外套をまとっている。だが、体格が違う。背が高く、しなやかで。カタリナ。
ヴァイスハウプト家の女性騎士。セレスティアの影の護衛。
カタリナの足が二人目の暗殺者の膝裏を蹴った。体勢が崩れた。短剣が逸れた。
続けて手刀。首筋に。正確に。二人目が崩れ落ちた。
「ヴォルフ先輩。二人目、制圧」
カタリナの声は冷静だった。ヴォルフは一人目の腕を背中へ回し、膝で押さえつけて動きを封じた。
「お嬢様。ご無事ですか」
「無事。ヴォルフ。カタリナ。ありがとう」
声が震えていた。
「お嬢様。大丈夫です。終わりました」
ナターシャの声。落ち着いている。だが、手が震えていた。ナターシャも。
「終わった」
「はい。ヴォルフとカタリナが止めました」
◇
近衛騎士が駆けつけた。暗殺者二人が拘束された。
回廊に松明が増えた。明るくなった。コンラートが息を切らして走ってきた。
「セレスティア!」
「コンラート。大丈夫。怪我はない」
コンラートの目が暗殺者を見た。それからヴォルフを見た。カタリナを見た。
「ヴォルフ。お前が止めたのか」
「はい。カタリナと」
「……そうか。ありがとう」
「コンラート。暗殺者の身元を調べて」
「ああ。近衛騎士団で取り調べる」
「お願い」
コンラートが暗殺者を連行した。
◇
セレスティアの部屋では、ナターシャがいつもより蜂蜜を多く入れた紅茶を淹れた。それでも手が震え、カップを持てなかった。
「持ちます」
ナターシャがカップを支えた。温かい。甘い。飲んだ。
「震えが止まらない」
「当然です。命を狙われたんですから」
「でも、宰相の時は。裁判の時は。もっと大きな敵と戦ったのに」
「刃が直接向けられるのは別です。政治の敵と、物理的な脅威は。体が感じる恐怖が違います」
ナターシャがセレスティアの手を握った。
「お嬢様。怖かったですか」
「怖かった」
声が震えた。
「怖かった。死ぬかと思った」
「死んでいません。ヴォルフが守りました。カタリナが守りました。お嬢様は守られている」
「守られている」
「はい。十二年間、ヴォルフはお嬢様を守り続けてきました。交代で休む時も、任務で離れる時も、必ず誰かが扉の前に立つ形を残して」
セレスティアはヴォルフのことを思った。扉の外に立っている。今も。いつも。
「ヴォルフにお礼を言いたい」
「明日にしてください。今夜は休む時です」
「でも」
「ヴォルフはお礼を言われることを望んでいません。お嬢様が無事であること。それだけが、ヴォルフの報酬です」
セレスティアの涙がこぼれた。
「ナターシャ。わたし、まだ震えてる」
「震えていいです。怖い時は、怖いままで」
「怖いまま」
「はい。怖さを知っている人は無謀なことをしません。お嬢様が怖いと感じることは、良いことです」
ナターシャが毛布をセレスティアの肩にかけた。
「今夜はここにいます。わたくしが」
「ナターシャも怖かった?」
「はい。とても」
「でも、声が落ち着いてた」
「お嬢様の前では震えないと決めています。お嬢様が震える時、わたくしまで震えたら、お嬢様が不安になる」
「ナターシャ」
「でも、正直に言います。今夜、部屋に戻ったら、たぶん泣きます」
「泣く」
「お嬢様が無事でよかったと思って。怖かったと思って。両方で」
セレスティアはナターシャの手を握りしめた。
「泣かないで。わたしは無事だから」
「無事だから泣くんです。無事じゃなかったら、泣けませんから」
その言葉がセレスティアの胸を突いた。
「ナターシャ。わたしは死なない」
「はい」
「絶対に。あなたを泣かせない」
「……お嬢様。それは、約束ですか」
「約束。わたしは帰ってくる。いつも。必ず」
ナターシャの目が潤んだ。
「……ずるいです。泣かないと決めていたのに」
「ごめん」
「謝らないでください。嬉しい涙ですから」
二人で笑った。涙を拭きながら。
◇
翌朝。コンラートが報告に来た。
「暗殺者は保守派貴族の雇った傭兵だった。貴族院改革法案に反発した一派の仕業だ」
「首謀者は」
「グライナー男爵。保守派の強硬論者。既に身柄を拘束した」
「グライナー。予想していた名前ね」
「予想していたのか」
「改革法案の議決で最も激しく反対していた。退場した時の目が、理性を失っていた」
コンラートが歯を食いしばった。
「俺が警護を厚くすべきだった。法案可決後の反発は予測できたはずだ」
「コンラート。あなたのせいじゃない」
「俺の仕事だ。陛下と、お前を守ることが」
「守ってくれたよ。ヴォルフとカタリナが。あなたの部下のカタリナが」
コンラートの目が揺れた。
「カタリナは俺個人の部下じゃない。ヴァイスハウプト家から出した、お前の護衛だ」
「でも、近衛騎士団の一員でしょう。コンラートが育てた騎士団の」
コンラートは何も言わなかった。それからしばらく、言葉のない時間が流れた。
「……次はない。絶対に」
「次があっても、わたしは大丈夫。だって、守ってくれる人がいるから」
コンラートの拳が震えた。
「お前はいつもそうだ」
「そう?」
「人を信じすぎる。でも」
「でも?」
「信じていい。俺が守る。命に代えても」
「命に代えないで。生きて守って。わたしの傍で」
コンラートの目がセレスティアを見た。何かを言いかけた。飲み込んだ。
「……分かった。生きて守る」
「約束」
「約束だ」
コンラートが敬礼した。
◇
アレクシスは、王としての体面も忘れたような速さで廊下を走ってきた。
「セレスティア! 無事か!」
「無事。陛下。走らないで。王が廊下を走ったら」
「知るか。お前が無事かどうかの方が大事だ」
アレクシスがセレスティアの手を取った。両手で。
「怪我は」
「ない。ヴォルフとカタリナが」
「聞いた。二人には直接礼を言う。だが」
アレクシスの手が震えていた。
「陛下」
「怖かった。報告を聞いた時。心臓が止まるかと思った」
「止まってない。陛下も、わたしも。ここにいる」
「ここにいる」
アレクシスがセレスティアの手を握りしめた。
「もう二度と、こんなことは起こさせない。グライナーには法で裁く。見せしめではなく、正しい手続きで。だが、確実に」
「陛下。ありがとう」
「礼は要らない。僕がすべきことだ。王として。そして」
言葉が途切れた。
「そして?」
アレクシスが目を逸らした。耳が赤い。
「何でもない。行こう。対策を立てなければ」
手を離そうとした。だがセレスティアが離さなかった。
「陛下。もう少しだけ」
「もう少し」
「手を握っていて。もう少しだけ」
アレクシスの耳がさらに赤くなった。
「……分かった」
二人で廊下に立っていた。手を繋いだまま。朝の光が窓から差し込んでいる。アレクシスの手は温かかった。
「行こう」
「うん。行こう」
手を繋いだまま歩き出した。




