父と娘の盟約
ディートリヒの幽閉から二日が経った。
屋敷の空気は奇妙に静かだった。嵐が過ぎ去った後の、妙に澄んだ静けさ。使用人たちは家宰の突然の「療養」に困惑していたが、ヘルマンの鉄面皮が全ての疑問を封じ込めていた。
「ディートリヒ殿は体調を崩され、静養中です。当面の家政はヘルマンが代行いたします」
それで十分だった。ヘルマンの言葉を疑う使用人はいない。
だがセレスティアは知っていた。静けさの下で、水面下の動きが続いていることを。
◇
三日目の朝。公爵がセレスティアを書斎に呼んだ。
二度目の書斎への召喚。だが前回とは空気が違う。前回は緊迫と畏怖があった。今回は――何だろう。セレスティアにも読めなかった。
書斎に入ると、公爵は窓際に立っていた。朝の光が銀髪を照らしている。碧い目が娘を見下ろした。
「座れ」
公爵が自分の椅子の向かいに、小さな椅子を用意していた。セレスティアの身体に合わせた高さの椅子。誰かに命じて運ばせたのだろう。
セレスティアは椅子に座った。足が床に届かない。三歳の身体の現実。
公爵も椅子に座った。机を挟んで向き合う。父と娘。公爵と三歳児。
「ディートリヒの処分について話す」
公爵の声は事務的だった。だがこの男が三歳の娘に「処分について話す」こと自体が、前世では考えられない出来事だ。
「ディートリヒは幽閉する。殺さない。追放もしない」
セレスティアは頷いた。予想通りだ。ディートリヒを殺せば、宰相に「公爵家が強硬手段に出た」と宣伝される。追放すれば、ディートリヒが宰相の元に走り、公爵家の情報を全て売り渡す。
幽閉が最善だ。情報源として利用しつつ、外部との連絡を断つ。
「わかりました」
公爵の目が僅かに動いた。三歳の娘が政治的判断を理解している。もう驚きはしない。だが慣れてもいない。
「理由を聞かないのか」
「ディートリヒさまをころしたら、さいしょうさまにつかわれる。おいだしたら、さいしょうさまのところにいく。かくしておくのがいちばん」
公爵は長い息を吐いた。
「三歳児の発言ではないな」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
公爵は机の上の書類に目を落とした。ディートリヒの尋問記録だ。ヘルマンが二日間かけて聞き取った内容が、びっしりと記されている。
「ディートリヒは十五年間、宰相に情報を流していた。公爵家の財政状況、軍事力、人事、全てだ。更に三年前から、リリアーナへの毒の投与を実行していた」
三年前。セレスティアが生まれた年だ。
「おかあさまのどくは、わたしがうまれたとしから?」
「そうだ。宰相がリリアーナを標的にしたのは、リリアーナが王家と繋がっているからだ。リリアーナの母――お前の祖母は王女だった。アルヴェイン家と王家の血の繋がりを、宰相は恐れている」
セレスティアは知っていた。前世でも同じ構図だった。母方の血筋が政治的な価値を持ち、それゆえに狙われた。
だが前世ではそれを知ったのは十五歳の時だ。全てが手遅れになった後で。
今世では三歳で知った。まだ間に合う。
「ディートリヒからは他にも情報を引き出した。宰相派の貴族の名前、公爵家に対する工作の一覧、金の流れ。これらは今後の対宰相戦略に使える」
公爵の目が鋭くなった。政治家の目だ。
「ディートリヒは賢い男だった。賢いがゆえに、自分が生き延びるためには情報を出す以外にないと理解した。尋問の二日目には、ほぼ全てを吐いた」
「さいしょうさまは、ディートリヒさまがつかまったこと、しってる?」
「まだ知らないだろう。ディートリヒの王都行きは三日の予定だった。帰還後の連絡が途絶えても、すぐには不審に思わない。だが一週間もすれば気づく」
一週間。猶予はそれだけだ。
「宰相が気づけば、次の手を打ってくる。新たな間者を送り込むか、あるいはもっと直接的な手段に出るか」
公爵は書類を閉じ、セレスティアを見据えた。
「セレスティア。お前に聞きたいことがある」
「はい」
「お前は、これから何が起きるか知っているのか」
核心。
セレスティアの心臓が跳ねた。父はもう遠回しな質問をしない。三歳の娘が異常な知識を持っていることを受け入れた上で、直接的に聞いてきた。
どう答える。
前世の記憶を全て明かすか。転生のことを話すか。
否。それは危険だ。信じてもらえないかもしれない。信じてもらえたとしても、情報量が多すぎる。一度に全てを明かせば、父の判断を混乱させる。
部分的な真実を。核だけを。
「ぜんぶはしらない。でも……こわいゆめをみるの」
「夢?」
「おかあさまがしんじゃうゆめ。わたしがころされるゆめ。おにいさまたちが、ばらばらになるゆめ。こわいことがたくさんおきるゆめ」
嘘ではない。フラッシュバックは夢の形で襲ってくる。前世の記憶は、三歳の脳にとっては悪夢と区別がつかない。
「そのゆめで、ディートリヒさまがわるいひとだってわかった。おかあさまのおくすりがあぶないってわかった」
公爵は沈黙した。
予知夢。あるいは神託。この世界には魔力が存在する。聖魔力が覚醒した少女が予知的な夢を見ることは、理論上ありえなくはない。
公爵はそう解釈するだろうとセレスティアは踏んでいた。転生の真実よりも、聖魔力に由来する予知夢の方が、この世界の常識の中で受け入れやすい。
「夢で見たことは、全て正しかったのか」
「いまのところは」
「これから何が起きると、夢は言っている」
セレスティアは慎重に言葉を選んだ。
「さいしょうさまが、わたしたちをつぶそうとする。おとうさまのちからをうばおうとする。おかあさまをもっとくるしめようとする。おにいさまたちにも、わるいことがおきる」
全て前世で起きたことだ。
「だけど」
セレスティアは父の碧い目を見つめた。
「ゆめのとおりにならなくても、いいの。ゆめはゆめだから。わたしたちがかわれば、ゆめもかわる」
公爵が目を見開いた。
「……お前は」
公爵は言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。
そして立ち上がり、窓に歩み寄った。朝の光が書斎に満ちている。
「セレスティア。お前の夢が正しいなら、この家は宰相と戦わなければならない」
「はい」
「勝てると思うか」
「おとうさまがいて、おにいさまたちがいて、ヘルマンおじさまがいて、マルガレーテがいて、ナターシャがいて、わたしがいる。まけない」
公爵の背中が僅かに震えた。笑ったのだ。声は出さなかったが。
「三歳の娘に戦力として数えられるのは、公爵として複雑だな」
「わたしはよわい。ちいさい。でも、みえるものがある。それをみんなにつたえることはできる」
公爵は振り返った。朝日を背にした銀髪の男の目に、決意が宿っていた。
「いいだろう。お前の夢を信じよう。だが一つ条件がある」
「なに?」
「危険なことは私かヘルマンに任せろ。お前は子供だ。どれだけ賢くても、身体は三歳だ。無理をすれば壊れる」
セレスティアの目に涙が浮かんだ。
前世では誰もそんなことを言ってくれなかった。全てを一人で背負い、一人で走り、一人で潰れた。
「……はい、おとうさま」
公爵が手を差し伸べた。大きな手。剣を握り、政敵を打ち倒してきた手。だが今、その手は三歳の娘に差し伸べられている。
セレスティアはその手を握った。小さな手が大きな手に包まれる。
温かかった。
◇
午後。公爵はヘルマンとフェリクスを書斎に集め、今後の方針を伝えた。
セレスティアも同席を許された。小さな椅子に座り、大人たちの会議を聞いている。異様な光景だが、もう誰も疑問を挟まなかった。
「ディートリヒの幽閉は継続する。外部への連絡は一切遮断。食事と最低限の生活は保障するが、訪問者は認めない」
「はい、閣下」ヘルマンの声。
「リリアーナの食事管理はマルガレーテとフェリクスが継続。毒の経路は全て塞いだが、油断はするな」
「承知しました」フェリクスの声。
「そして宰相への対策だ。ディートリヒの情報を元に、宰相派の動きを先読みする。ヘルマン、王都に信頼できる人間を送れ。情報収集だ」
「ラインハルト殿に依頼します。元近衛騎士で、現在は王都で私塾を開いています。信用できます」
公爵は頷いた。
「最後に。聖魔力の件は引き続き最高機密だ。ディートリヒが宰相に何を報告したか正確には分からない。だが『令嬢に異常な覚醒があった』程度の情報は渡っている可能性がある。宰相が動く前に、備えなければならない」
フェリクスが発言した。
「セレスティアの魔力制御訓練を加速させる必要があります。制御できない力は武器にならない。むしろ弱点になります」
「やる。おにいさま、おしえて」
セレスティアの声に、フェリクスが微笑んだ。
「もちろんだ。明日から毎日、朝と夕に訓練する」
ヘルマンが静かに付け加えた。「お嬢様の外出時の護衛はヴォルフが引き続き担います」
公爵は短く頷いた。「あの男に任せろ」
「ヴォルフって、どんなひと?」セレスティアが聞いた。
ヘルマンは少し間を置いた。「二十年前、閣下が路地裏で拾われた男です。それ以来ずっと、公爵家に仕えています」
路地裏。セレスティアはその言葉を、胸の中でくり返した。
会議が終わった。
ヘルマンとフェリクスが退室した後、セレスティアは椅子から降りようとした。
「セレスティア」
公爵の声が引き留めた。
「なに、おとうさま」
「ディートリヒがお前を見て言ったそうだな。『最初からお嬢様でしたか』と」
ヘルマンから聞いたのだろう。セレスティアは小さく頷いた。
「あの男は最後まで聡明だった。だが聡明さは、正しい主に仕えてこそ意味がある」
公爵はセレスティアの頭に手を置いた。重い手。だが優しい重さ。
「お前は正しい側にいる。忘れるな」
セレスティアは目を閉じた。父の手の温もりが頭から全身に染み渡っていく。
父の手が、離れなかった。
三歳の目に涙が浮かんだ。だが今度は悲しみの涙ではない。
「はい、おとうさま」
窓の外で、鳥が鳴いていた。春の日差しが書斎を満たしている。
公爵家の嵐は一つ過ぎた。だが次の嵐は、もう地平線に見えている。
宰相ガルニエ。王都の権力者。その影がこの辺境にまで伸びてきている。
だが今、彼女は一人ではない。父がいる。兄がいる。忠臣がいる。
負けない。もう二度と、負けない。




